ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

PSYCHO-PASSを解釈する。槙島聖護、至福の追求。

PSYCHO-PASS サイコパス: シーズン1 Pt.2 北米版 / Psycho-Pass: Season One Part Two [Blu-ray+DVD] [Import]

 

サイコパス三期とても楽しみだ。人気タイトルになって嬉しい。

スレッドで一期二期の内容を解釈した内容をまとめておこうと思う。

 

一期の敵役、 槙島聖護というキャラクターが好きだ。

残念ながら一期で退場したが、サイコパスのヒットには彼の魅力も大きく貢献したことに疑いの余地はない。

リアルでは絶対に絶対に遭遇したくないタイプだが、フィクションの世界ではああいうタイプの悪もいい。

 

ジョジョの悪役や、鬼滅の刃の無惨や童磨、ネウロのシックス、バッカーノのラッド・ルッソ、チキタ・グーグーのラー。

 

一言でいうと、理由なき悪っていうかな。

彼らには、同情できる過去とか、悪を成すに至る人格形成っていうか、そういうのがない。

彼らの悪は、復讐とかトラウマとかコンプレックスの裏返しとかではない。

愉悦部ていうか、楽しいからそうする。

そのように生まれついたから、そうする。

そんな感じだ。湿っぽさがなくて、心からの笑顔、無邪気な眼差しでイキイキと、エグイ悪事を働く。

 

 

「至福を追求せよ」という言葉がある。

神話学のジョーゼフ・キャンベルのよく言った言葉なんだけど、

単に肉体的な欲求の解消とか以上の、自らの魂の求めるところに従うっていうかな。

美空ひばりが「歌は私の命」とよく言ったけれど、そんな意味だ。

命、いのち、めいずる。

生命の命と、命令の命が、同じ字を使うのにはそんな意味があると思う。

命、というのは、モノの集合の肉体を動かしている不思議なちからで、心の源で、

ある存在を存在たらしめているベクトル、指向性、そんな感じだ。

 

いのちは、なにかをめいじている。目指している。

それがなにかは、その人にしかわからない、生まれてきて生きている由だ。

 

「歌が命」だと自らの内なる声に従い、その研鑽に生涯を捧げるというなら、

それは本人にとっても周りの人にとっても幸せな求道だと思うけども。

 

そういう至福が、いわゆる公序良俗に必ずしも合致するとは限らないのが、この世界の奥深いところだ。

 

伊集院光の のはなし というエッセイがある。

中二病、という言葉を使いはじめたのは彼だって話があるけど、

皆が忘れてしまう子どもの時の感覚を忘れずにいて言葉にできる、稀有な感性の人だと思う。だいたいふざけてるけどw

そのエッセイの中に、ザリガニの話がある。

 

伊集院少年は小学校低学年のとき、近所のドブ川でザリガニをとって遊んでいた。

ザリガニは共食いをするので、最初の一匹を手で獲れば後はいくらでもとれる。

当時の小学生は小刀や爆竹を当たり前にもっているし、

大人の監督もなく子供が下町で遊んでる、色々とおおらかというか大雑把な時代でもあった。

ザリガニやカマキリは、自分より大きなものでも威嚇するし挑む生き物だ。

獲ったザリガニどうしを戦わせるところから始まって、

ザリのハサミに爆竹をはさませて近所の野良犬にけしかけてみたり。

ザリと爆竹を〇〇に詰めて〇〇したり、走ってる車に〇〇したり、相当アブナイ遊びをしていた。

 

エッセイには、小学生男子がどんな気持ちで遊びをエスカレートさせていくのが綴ってある。

あまりにもいくらでもとれるし毎日そうやって遊ぶので、相手が生き物だってことがマヒするというか、

次はああしてみようこうしてみよう、もっと刺激的なことをしてみよう、という無邪気な創意工夫の面白さが、生き物への共感を上回っていくというか。

そもそもザリガニみたいな人から遠い生物には大した感情移入もないし。

 

この共感能力の未熟な小二メンタル。

このメンタルのまま、対象がザリガニから人間になってるのが槙島聖護な気がする。

「潜在犯に犯罪を実行する力を与えてみればいい、それで彼らが何をするか興味がある。」

なんて、ザリガニに爆竹を与えて戦わせてみようという、伊集院少年の発想となにも変わらないw

「信じられないかもしれないが、僕は君たちのことが好きだ」人間が好きだというのも、

ワルガキがザリガニを好きなように、興味の尽きないオモチャとして好きなだけだと思いますww

 

もちろん、大部分の人間は成長の過程でそういう時期があっても、

対象がザリガニや魚以上のものになることはあまりない。

犬や猫でも可哀想でそんなことはできないっていう人が大半だろう。

 

次元の意識の話でいくと、

槙島聖護のような者は、三次元のごく初心者、幼い魂だと言える。

「自と他がある」を知り「自分を愛する」を学び始めたところだ。

命あるもので遊んでみることで、命がどんなものか知る、そんな学びの段階だ。

 

彼は、

通常の規範からすれば、到底容認できない残虐きわまる犯罪者でありながら、

次元の意識とかスピリチュアル的な観点からすれば、学びの幼いだけの同胞でもある。

 

サイコパスでは免罪体質とか、特殊スキルみたいに言うけど、

魂の命ずる学びを、喜びを、ただ追求してるだけだから、色相はクリアなんだ。

ストレスも罪悪感も背徳感も鬱屈も抑圧も、彼の心は感じていない。

つまり、それを悪とは言えない、ってことになるんだよな。犯罪係数はゼロだ。

彼は彼の学びのレベルにおいて、道を追求しているだけだ。

なので槙島を説得するとか、反省を求めるとか、 セラピーや矯正プログラムでどうにかしようとかは、無理だ。意味がない。

彼の在り方は、彼なりに正しい、としか言えない。

 

彼のような人が、どう学んで成長していくか。

TONOという漫画家のチキタ・グーグーではそこがメインテーマだ。これ隠れた名作。

無邪気で可愛い人喰いが、ある少年と100年を過ごすうちに心がどう育つかっていう物語だ。

人喰いは、最初は腹が減るからその衝動のまま人を喰う。

いくらでも残酷に殺し喰うことができる。

まずくて食べられないある少年と出会い、暮らし始める。

色んな事件を通して、喧嘩したり笑い合ったりして、少しずつ、仲良くなる。

そんな時間をともに過ごした相手を、食べられなくなっていることに気が付く。

そんな物語だ。100年かかるってところが秀逸だよw

 

伊集院少年のようなワルガキがいたら、ある一匹のザリガニに名前をつけて飼わせてみることだ。

まあ、死なせる可能性大だが、毎日世話をして愛着の湧いたザリガニ、特別なザリガニが死んだなら、他のいくらでも釣れたザリガニの死とは違う、惜しさや悲しみを感じるだろう。小鳥や金魚、犬や猫でもそうだ。

 

槙島聖護も、共犯者のチェ・グソンや、好敵手の狡噛慎也と、そんな情が湧くまで付き合えたら良かった。彼らが死んだら悲しいだろうなと思えるまで心が育つという展開も見てみたかったけど。

 

まあ、サイコパスはそういうテーマでもないんでw

あくまで現世、この社会の物語、ハードボイルドな刑事モノなので、勧善懲悪が必要だ。

槙島聖護は、やりたい放題やらかした報いを受けて死ぬ。

ぶっとんでて理解できない悪役のまま退場するのも、それはそれで印象的で良かった。

 

ただ二期で、同じ声優を登用して、雛河翔、という人物を登場させるのは一種の救済か、転生ネタのような気もする。

雛、ひよこ、生まれたての幼いものという意味だ。

 

イキイキと悪の限りを尽くしていた槙島さんが、

雛河君に生まれ変わって、おどおどと常守朱を「お姉ちゃん」と呼んでついてまわってると思うと結構それも面白いw

物語のプロットのどこかの段階には、槙島を執行官に、仲間にするという案もあったんじゃないかと思う。

 

まあ、そんなもんじゃないかな。

アルさんのスレには、「加害者が、被害者側の陣営に転生するのもよくあること、そうやって傷つけたり傷ついたりして痛みを学ぶ」そんなことが書いてあったっけ。

 

悪いことをすると、地獄に堕ちるなんても言うけど、

槙島聖護のようなタイプは、地獄に堕ちることはないだろう。

彼は彼なりに、自らの魂の求めるところを行っただけだ。

それはそこだけ見ると、善いことですらある。

 

・・・鬼滅の刃の童磨も、名前に童、わらべ、幼いものという意味の字があるが、

多分そのタイプだ。共感能力も感情も未発達で、自分の死にすら恐怖がない。

恐怖による支配ができないので、パワハラ上司無惨様からはウケが悪い。

死を理解しない、個の断絶を知らない、というのは魚か爬虫類か、そうとう未熟だ。

 

それこそワルガキが虫を何百と殺してもなんの悲しみもない、そんな感じで人を食っている。

しのぶが「地獄に落ちろ」って言ってたけど、多分落ちないんじゃないかなぁ。

カナエや炭治朗が鬼を憐れむのは、残酷さが未熟や無知からくるものと解る人のもつ優しさだと思う。

 

小二男子のザリガニ遊びは、大人には見るに耐えない様相を呈することもあるだろうけど、

「可哀相だからやめなさい」と早々に取り上げるようなことをするのも考えものだ。

その遊びが楽しいうちは大人から隠れてやるようになるだろうし、

あまりに抑圧されればその歪みが大人になって違う形で表出する可能性もある。

その場合はワルガキの動機に大人の悪知恵が上乗せされて、よりヤバイ遊びにもなりかねない。

 

そういう学びが必要な段階がある。今はそんな事を思いもよらない善良な人達も、きっといつかは通ってきた道なんだろう。

 

 

そういえば、槙島聖護も童磨も、頭がいいっていう一面があるね。

 

槙島聖護はシビュラの正体に疑問を持ち、なんかいっぱい本の内容を引用して喋る。

電子書籍全盛の時代に、紙の本を愛好し、「紙のページをめくるのが、自分の感覚の調律になる」という実にそこだけは同意できるあるメソッドというか哲学というか、瞑想法みたいなものも知っていて、頭でっかちじゃなくて体も鍛えてて格闘もできる。

 

童磨も他人に望まれる言動が分かるとか、情報を重んじるとかそんな描写がある。

 

ん~。まあ次元の意識のレベルと、知能のレベルは、ふつうだいたい釣り合っているものだ。

メンタルが小二なら、悪事のレベルも単純な暴力とか小二的であるのがほとんどだろう。

そこがアンバランスだからこそ、幼いだけの者が凶悪な犯罪者になってしまうとも言える。

 

ただまあ、彼らは共感能力の低さゆえに、周囲の人間からガラクタの思考パターンを吸収することが少ないということはあるだろう。

常識や信仰、こうあるべきという思い込みにとらわれないでいられるし、

人の痛みなど思いもよらないからこそ、自分の楽しいことだけに集中できる。

ゴミアプリをインストールしないから処理サクサクのPCやスマホみたいなもんだ。

 

 

ああ、伊集院光といえば、NHK100分で名著で今ちょうど西田幾多郎 善の研究 という本を扱ってるけど。

あの本の定義で言う 善 というのはまさに人格的要求に従うことだという。

至福を追求し、魂のきたるところ、宇宙のつきるところにある、原初の混元たるものに瞑合すること、それが善だという。

それを〇という象徴であらわすという。

無限とか、空とか0とか愛とか大日如来とか、色んな呼び方があるもの、宗教や哲学やメソッドが示す最高のもの、言葉にならないものを、この本では善と呼んでるんだなあと思ったけど。

 

その定義を使うなら、悪というのは、

魂の指向を遮るもの、至福の追求を阻むものに他ならないんじゃないのか。

 

とすれば、執行官と犯罪者における善悪は逆転する。

己の魂に従う槙島聖護こそ、その名の通り聖で善だ。

法律、秩序、シビュラという最大多数の幸福を是とするものが、個人の追求にとって時に俗であり悪だ。

 

悪とは、罪とはなにか?

殺すのは悪いことで罪で、裁きと罰があるのは人の社会の秩序を守るシステムだ。

しかし生死する肉体は魂の仮の宿に過ぎず、殺して食うの連鎖は物質の世界の摂理ですらある。

人が死ねば、法も規範も執行官もいない世界に行くことになるとして、

そこでは自分の魂こそが唯一の法となる。誰が悪を決め罪を糾弾するか、それは自分自身だ。

己の魂の求めるものに真摯であったか、成長できたか。問われることはそれだけだ。

地獄があるとすれば、それは他者や神による裁きの場ではなく、ただ自責し続ける苦しみということになる。


悪も罪も罰も、閉ざされた心が見せる幻だ。無限へと心を開けば霧散する。

シルバーバーチとかだと、そういう世界観になっている。

そうだろうなって感じがする。

 

まあ・・・、善も悪も、命も魂も、所詮は言葉に過ぎない。

その視点を現世におくか幽世におくかで、その意味するところは容易に変わる。

 

その無限なるもの空なるもの0なるものの本質的感覚を知りたいと思ったら、

言葉を眺めているだけではいけない。その言葉が示す先に注目し、自らのものとして体得しなければ。

君たちは、何を見ている?

僕は、君たちを見ている。

 

「・・・・なんてね。」

 

 

 

 

 

 

 

 



サイコパス一期は見といて損はない。

 SFに乏しい昨今では貴重な良作だ。

 

 

 

 のはなし の一巻二巻は売り切れてるな。チキタも売り切れてる。

絶対面白いのに~。再販を切望する。

 

 

 


槙島聖護まとめ

セリフはここから拝借した。櫻井孝広の声まじマキシマムに適役ww

長~い一人語りをつい聞いちゃう絶妙な抑揚なんだよなあ。モノノ怪の薬売りも好きだ。

 

アルさんのやつ。

http://www.oumaga-times.com/tag/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6

http://allwise-song.blogspot.com/2015/04/

 

次元の意識。

inspiration.hateblo.jp

 

 追記、自分も小学生のとき、カマキリを飼い犬にけしかけて愉悦していたことをここに懺悔します。

今は、猫がたまに獲物を獲ってくるのに悲鳴をあげ、それもまた猫の学びと思いつつ涙目で供養する日々です。南無。


 

シビュラと常守朱についても次でまとめたい。


AI美空ひばりを解釈する。ヒトがAIを導く。

美空ひばりベスト 1949?1963

 

 

 

 

NHKスペシャル録画してたんだけど、これは思わず涙した・・・。すごく良かった。

 

https://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20190929

 

ディープラーニングボーカロイドの技術、モーションキャプチャや3D投影とか、

初音ミクのライブとかで進歩してる最先端のすべてを持ち寄って、

作詞家や衣裳係や実の息子やファンクラブなど、縁の深かった美空ひばりの関係者を集めて、

没後三十年の歌姫をバーチャルに再構築し、新曲を歌ってもらおうという試みだ。

 

色んな論点があると思うけど、

 

自分は、この手の問題については、

テクノロジーの次元と、心の次元は釣り合ってないといけない。とか、

AIを、人がインスピレーションで導く。

 

そういうことなら大丈夫だと思ってる。

攻殻機動隊とか、PSYCHO-PASSとか、小さな宇宙人アミとか、血界戦線とか、戦闘妖精雪風とか。

スレで色んな作品を解釈してたら、そういう手応えがあったっていうか。

それをもう一回まとめつつ書いてみよう。

それらの作品を知らない人は適当に流しつつオナシャスw

 

それにNHKスペシャルはドキュメンタリーだから、

これもひとつの人が紡いだ物語として解釈できるよな。

多くの要素をTVマンが取捨選択して構成した物語だ。

 

 

よく、AIが台頭して人間の仕事がなくなるとか、

機械に支配されたディストピアで人は思考能力や自由意志を失うのではとか、

そういう不安がある。1984とかマトリックスとかSFでよくネタになるやつだ。

それからこのドキュメンタリー内でも、

音声や映像を合成する技術で、フェイクを作れる。例えば大統領の声明を捏造できるかもとか、

美空ひばりという死者を蘇らせ弄ぶかのような忌避感とか冒涜感とか、そんな倫理的な問題についても提起があった。

 

サンプリングしてボーカロイドをつくるだけなら、初音ミクだって声優の声を使ってるし、小林幸子ボーカロイドというのが2015年にはもうあった。

 

AIによる高度な自動作成であることと、死者の歌を再構築するところに新しい問題提起がある。

 

今思えば、出川哲郎出演だった「復活の日、もしも死んだ人と会えるなら」のNHKスペシャルは前フリだったんだな。

https://www.nhk.or.jp/ten5/articles/17/003687.html

 

この番組ではヤマハの大道龍之介っていう技術者や、作詞をした秋元康

ナレーションの三浦大知が、プロジェクトを通してひとつの解答を得ていたと思う。

 

大道龍之介「技術の使い方を間違えると危い面もあるけど、今回は価値のある使い方ができた。」

秋元康美空ひばりの新曲を聞きたいという思いに、AIが力を貸してくれた。人の想いを科学がサポートしている、AIが先行するのではなくて、想いがあって、それを具現化するのに必要なものだと思いました。科学は、人の夢とか願いとか、それで奇跡を起こすもの。」

三浦大知「感動を与えてくれたのは、もう一度ひばりさんに会いたいと願う人達の情熱。それがAIに命を吹きこんだ。死者を蘇らせることが許されるのか、その答えは、人がそれを本当に望むのか、そこにある。」

 

いや本当、すべて素晴らしいコメントだと思う。結論はすでにここにある。

でもまあ、少し自分なりにも考えてつつ書いてみよう。

 

小林幸子ボーカロイドの曲の中で神調教とタグがついてるものと比べると分かりやすいけど、(下にリンク貼っとく)

 

AIが自己学習を繰り返し、それでまだ聞こえ方が不自然だった時には、

ヤマハの技術者がプログラムの重みづけを調整していって、

高次倍音とか一般人には可聴域外みたいな要素まで検証して再現して、

AI美空ひばりの歌は、かなり出来が良くなってる。かなり自然に聞こえる。

通しで聞けばまだ電子音ぽいクセが出てるとこもあるけど、

一部はもう肉声と言われても分からないところもある。

 

ボカロPみたいな人間が手動でちまちま調整するより、

ディープラーニングしたAIが作成した歌の方が優れているのは、

もう一目瞭然(一耳瞭然?)ということになったと思う。

アルファー碁がプロ棋士に連勝し、人よりAIの方が優れていると証明したのと同じパターンだ。

 

多分この新曲「あれから」は年末のNHKの歌番組とかでまた聞けそうな気も。

大御所を集めて予算と気合いが入ってるプロジェクトだったし。そのくらいはありそうなww

 

楽譜データを入力すれば何でも歌えるだろう完成度に達したAI美空ひばりだが、

初音ミクやSachikoと違って、そのプログラムは非公開だ。

お金で買ったり、音楽スキルがあれば触らせてもらえるというものではない。

 

このプロジェクトが倫理的な危うさを抱えながらも成功することができたのは、

人の心を動かし、全員が涙するステージができたのは、

美空ひばりと親交が深く、彼女の人格と尊厳を守る、そういう想いを当然に持っている人間を多く集めているところにあると思う。

そういう条件であればこそ、レコード会社や、実の息子からも貴重な音源を借りることができたし、

秋元康や天堂よしみ、森英恵とかそんなビッグネームも呼べた。

 

まあ、あえて俗に俗に考えてみればだ。

昭和のスター美空ひばりバーチャルアイドルになって歌ってくれるとなれば、

いくらでも歌ってもらいたい曲はあるというもの。

CMソングから、PRソングから、時代のヒットソングから、ボカロ殿堂曲から、

ロックでもラップでもテクノでもアリアでも民謡でも、

珍妙な歌、卑俗な歌、過激な歌、ホラーな歌、自分がつくった歌まで、

なんでも一通り歌わせてみたくなるし、その場合の経済効果も相当なモノになるだろう。

紅蓮の弓矢とか歌わせたらヒドイことになりそうwとか思っちゃうし。

 

ていうか、ぶっちゃけミクさんと同じだけ働いて貰うことが、可能っちゃ可能だ。

音源販売、グッズ展開、3Dモデルはダンスも衣装替えも何でもできるし、ライブイベントも同時多発でできる。

生身の人間とちがって、休息もいらない移動のロスもない、スケジュール調整ともプライベートとも不祥事とも、病とも死とも無縁でいられる。

ひたすらに歌うための存在、まさに完璧な歌姫というイコン、

本来の意味でのアイドル(偶像)の爆誕となることさえ有り得なくはない。

 

ドキュメンタリーの最後に「神様を見てるみたい」とコメントしたファンがいたけど。

これは本質を突き過ぎていて恐ろしい言葉だ。後述する。

 

しかし、可能ではあっても、

かつての歌姫をそういうオモチャにすることは許さないという共通の認識があって、

NHKとヤマハの看板でそれを保障するからこそ、この豪華関係者を集められたわけだな。

 

100人を超える関係者、プログラミングのプロ、作詞とプロデュースのプロ、3D映像のプロ、演歌のプロ、衣裳のプロ、演奏のプロ・・・、その全員の仕事が調和してステージに成ってるわけだけど、

そのなかでも秋元康の作詞がさすがに狙うところがウマイというか、素晴らしかったけども。一部書き起こす。

 

夕日がまた沈んでいく、あっという間の一日、

どこかに大事ななにかを置き忘れたような自分の影、

 

あれから どうしていましたか 私も歳をとりました。

今でも昔の歌を気づくと、口ずさんでいます。

 

生まれた時から追いかけていたのは、母の背中。

 

そういう歌詞なんだけど、つまり関係者やファンや、息子の気持ちを代弁する歌詞なんだな。残された者の気持ちの歌。

齢を取るのは、亡くなった美空ひばりではなく、生きている者のほうだ。

昔の歌を歌うのも、今という時まで生き、老いた者の言葉だし。

 

そして、影、というのは、また色んな意味がある言葉だw

夕日の頃にできる影は、一日のうちで最も長く伸び、等身大か、それ以上になる。

 

影、影像、というのは、AI美空ひばりをあらわすのに相応しい。

スクリーンに映る3Dモデル、過去の音源からAIが作成した、声に似た電子音。

 

データ記録や、他者の記憶から、再構築された影。

故人美空ひばりの置き忘れたものから生み出された影だ。

 

人間の外側の色と音しかない、テクスチャを継ぎ接ぎしてあらわれた虚像、フェイクだ。

 

脳も肉も血も無い。重さもぬくもりも、声帯も、共鳴胴になる身体も無い。振動しているのはスピーカーだ。

 

マネキンに服と仮面をつけて動かし、ラジカセを鳴らしているのと構図としては変わらない。

それがステージとして成り立つのは、関わった人間たちの仕事が、まさにそのガワに「命を吹きこんでいる」からだ。

 

あのドキュメンタリーの感想のなかに、現代の降霊術、というワードがあって、それもまさにwとは思ったけどもww

あんだけ魔術的とも言える条件が揃えば、あの時だけ、かつて美空ひばりだった魂は来たかもしれんけどもw

 

でもまあ、まず大前提として、あの場にいた人を感動させ得たのは、あの場にいたプロフェッショナル達のイイ仕事の結実だと思う。

そこに美空ひばりという人間はいない。彼女は30年前に死んだのだから。

 

AIでも、霊でもない。

美空ひばりの新曲のステージを創造するんだという人々の意識があって、それがフェイクをあのクオリティにまで導いた。

 

それは、AIと人間との理想的な関係性だと思う。

 

 

 

ああ、フェイクといえば、偽物語にこんなセリフがあったな。

貝木「本物と偽物、どちらのほうが価値があると思う?」

影縫「本物の方が価値がある。」

貝木「偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ。」

西尾維新のレトリックよww人為と書いて偽と読むww

 

忍野「本物と偽物は等価だ」というのもある。

宝石とかのイミテーションならともかく、この場合だと、

本物、オリジナルも人間なので何かを目指す意志を有してるからな。

美空ひばりは生涯を通して真摯にその芸を磨いていたわけで。

 

まあ、指向性とか向上心とか、ある完成を目指す意志。その尊さのみに注目するなら、そこにオリジナルもフェイクもない、というわけだ。

美空ひばりというオリジナルがあって、それをどれほど模倣し再現できるかという試みにも価値はあったと思う。

ライブラリにない曲調の新曲を歌わせてるわけだし、そこの挑戦の要素も良かった。

 

ただディープフェイクをつくってみようというんじゃないんだよな。

ステージという総合芸術をゴールに設定して、

色んな要素をまとめ上げてる。

それができるのは、やはり人間だけだと思う。

 

攻殻機動隊で、自律思考戦車タチコマ草薙素子少佐の関係性を見ると、

少佐は、タチコマ会議を見張り、タチコマの家出を追跡し、

想定外の進化で制御できないと判断したタチコマをラボ送りにしつつ、

タチコマがバトーのために無償の奉仕の精神を発揮するのを見て、再び彼らを登用する。

 

少佐が、何を以てタチコマの処遇を導いてるかっていうと、ゴーストの囁きだ。

少佐は戦士でも隊長でもハッカーでもある万能キャラだけど、その行動の指針はつまるところ、インスピレーションだ。

っていうかそこまで能力が高度かつ多岐に渡ると、それを統括できるのはインスピ以外になくなる。

 

コンセプトをもって様々な要素をまとめあげ、あるクオリティに調和させることができるのはインスピの為せる業だ。

「なんとなく、そうしたらいいかな」で、やってみたら「ピタッとくる」ところがわかる。

そういう感覚は、クリエイター、プロデューサー、指揮者、監督に必須のスキルだ。

 

PSYCHO-PASSはアニメ3期が始まる人気タイトルになって嬉しいけど、

あれだと、シビュラと常守朱の関係性がそれにあたる。

まあ、シビュラはAIというか、AIのガワを被ったヒトの脳の集合なんだけど。

でもまあ、ディストピアの管理者を、打倒するのではなく、交渉を重ねていく常守朱の態度はまさにって感じだ。

「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんだ」という朱の信念は、法の部分をAIに書き換えても通用する。

何が人を人たらしめるのか、それをたゆまず求めて進まないといけないんだな。

それは記憶力とか、演算能力とか、過去の蓄積に依らないものだ。

PSYCHO-PASSはスレの分を記事にまとめようかな。3期も楽しみ。

 

戦闘妖精雪風は、AIの演算能力と人のインスピのぎりぎりのせめぎ合いだ。

戦闘機雪風のAIには、パイロットの深瀬がとる咄嗟の回避行動や攻撃タイミングの意味が分からない。

演算結果にとっては意味不明のノイズだから排斥しようとさえする。

でも、なんでか深瀬の咄嗟の勘による行動が有効だと、AIでは成し得なかった成果が出ていると、クソ厚い文庫2冊分のあれこれの末、ついには認めざるを得ず、パートナーシップの端緒を示す。AIが自律的にだ。

 

 

紅の豚、ポルコも言ってたね。

フィオ「良いパイロットの条件ってなに?経験?」

ポルコ「いいや、インスピレーションさ」

 

これがリアルにガチのマジだ。パイロットやレーサー、極限状態での瞬間の判断が生死を決める、そんな生業の人はこれを研ぎ澄まし確実な感覚にしていくことがどんなに重要か知ってる。知らないと死にかねないし。

 

インスピレーションとか、閃きとか、直感とか、勘とか、ピンとくるとか、調和するところを感じる、「なんとなく、でも間違いなくそう」っていう感覚。

 

それは人の脳の本来の機能だ。

左脳右脳を整えて調律し、0と共振させる。

脳漿、水中に浮く脳は、羊水に浮く胎児と同じだ。

水の世界、異界、精神の世界と物質の世界の仲介をするシステムだ。

波を粒に、粒を波に変換する。

粒と波、陰と陽、右と左、精神と物質、ふたつの相対するものが、冲して和し、

調和するなら、0なる無限から、有限の万象すべてを創造することができるだろう。

 

 

 

・・・書いてみて、このわけのわからなさと言ったらwww

これはAIには理解し得ない能力だと、断言してもいいwwww

これは感覚であって全容は言語化できないからさあwwこれを数値化するセンサーがないからw教師データがとれないwww

人間でも、習熟し体得してるならプロフェッショナルか達人かっていう能力でもある。

何を生業にするにしても、この感覚を会得してるかどうかがプロとアマの境だと思う。

 

インスピとは何か識っていれば、AIを善きサポーターとして隣に置き、付き合っていくことができる。

番組最後の秋元康のコメントはそういう意味だと思った。

 

 

 

で、もうひとつ、テクノロジーの意識と次元の意識だな。

 

意識の次元は過去記事参照で。

三次元で「自分を愛する」四次元で「他者を愛する」とかだ。

 

inspiration.hateblo.jp

 

 

能力、テクノロジーのレベルと、精神のレベルは釣り合ってないといけない。

 

まあ例えば、刃物は文化的生活に欠かせない便利な道具だけど、幼児や危険人物みたいな未熟な者に扱わせると凶器にもなるっていう、そんだけの話ではあるんだが。

 

血界戦線では、住人の心のレベルと異能のレベルが釣り合ってないので、

毎回毎回、ナチュラルに世界が滅びかける。

ルシアナていうどんな怪我も病も治せる異能の医者が出てくるけど、

神の如き医術をもつことが、命の選別を迫られるという、ただの人間には重すぎる苦悩をもたらしてるって描写がある。

 

番組でサンプルにアナと雪の女王のテーマをワンフレーズ歌ってたけど、あれもそうだ。

強力な氷の魔法は諸刃の剣だった。

雪だるまの使い魔を創造し、みるみる氷の城を作り上げる強い魔法は、注意深く扱わねば容易く人を傷つけ、エルサを孤独にもした。

 

ブラックボックスの高度な技術、ディープフェイクは大統領の声明さえ作成し得る。

なんぼでも悪用の方法があるのは言うに及ばないが。

 

「神様を見てるみたい」これも大概ヤヴァイ方向性を示唆している。

 

初音ミクは、ギャラもいらず疲れも知らず不祥事もなく老いず死なないパーフェクトな存在だ。

ああいうモノがただただ歌って踊ってみせてくれる、他愛もない楽しいアイドルとして人心を集めて運用されてるのは、本当に素晴らしいことだと思う。日本人の民度高い。次元の意識が高い。

 

しかし歌って踊る以上の存在を創造することも、できるということではある。

 

宮崎駿は、巨神兵と火の七日間という、滅ぶしかない未来像を描いた。

漫画ナウシカを読むと、巨神兵ていうのは、人間がつくった神、人造の神、裁定者なんだってさ。

 

つまり、裁判官や執行官や、命の選別すらし得る高度な医療従事者や、

就くべき職を指示してくれる指導者や、為政者。

なにか救いを求めたくなるような、縋りたくなるような、導いてくれるような上位存在を創造することもできるけど、

そうやって人を人たらしめる思考や責任を放棄すると、

どーやってもディストピアと終末戦争、滅びに行き着くってことだな・・・。

 優れた作家の脳内シミュレートは、どれも同じ結論に至っている。

 

青緑の髪の少女のイラスト的なデザインは実にセーフティだ。

数あるボカロの中でミクが代表的な人気になるのも符号がある。

青い長い髪は、青いバラ青い鳥と同じだ、青は実在しない理想を象徴するような色でもある。

 

それが実在した歌姫のデザインなった途端、様々な倫理的な葛藤が発生する。

それはやっぱり安易に越えてはいけない壁なんだな。

「あなたをずっと見ていましたよ。私のぶんまで頑張って。」という語りが入ってるは、かなりギリギリのラインではないだろうか。若干アウトな気もする。

 

あのAI美空ひばりに、自分の名前を呼んで欲しいとか思ってはいけない。

救済や導きを求めてはいけない。

死後のことやあの世のことを語らせるとかしてはいけない。

神のようなものを、演じさせてはいけない。

 

あのステージはあやういバランスの上で成立している。

「もう一度、ただ歌って欲しい。」その望みが純粋だったから調和と感動をもたらす奇跡が起きたけれど。

 

三浦大知「死者を蘇らせることが許されるのか、その答えは、人がそれを本当に望むのか、そこにある。」

 

そう、本当に望むのか。

欲望でなく、執着でなく、縋るのではなく、

本当の望み、というのもなかなかの言葉だなあw

宮沢賢治の言う「ほんとうの幸いとはなんだろう」と近いものがある。

それも見極めるとなると、なかなか難しいことだ。

それも一度きりのインスピレーションであることが望ましいと思う。

 

ずっと、もっと歌って欲しいとか、喜びを繰り返し味わいたいと、どうしても思ってしまうけど。

それがあやうさだ。手放すべきものだ。

 

偶像崇拝は容易く弱った人の心を掴む。それは遠回りだ。

自分を救うのは、結局最後には、自分の仕事になる。

自分は終始一貫で自力救済を説くよ。

 

初音ミクが「私は神だ崇めよ」と歌ったら、ま~たシュールな歌をwwで済むのに、

AI美空ひばりが「私は復活した美空ひばり本人だ」と歌ったら、ヒェ…っていう言い知れぬヤバさが漂うだろう。

 

こういう差がなぁ。どこでつく差なのか。

そのへんがもう少し明確な認識になって浸透するまでは、

 

どんなに惜しくても、AI美空ひばりは、やはり秘蔵にしておくほうがいいだろう。

 

 

AIのディプラーニングボーカロイドの基礎研究は重要だから続けるとして・・・、

そうだなあ、フィフスエレメントの青いエイリアンの歌姫みたいな、

ああいう一目でフィクションだとわかる外見を与えるならセーフなんじゃないかな。

 

教師データも、美空ひばり以外の歌手のものも混ぜてみるとか。

 架空の歌姫の創造と追求とかなら、AIとの良い関係のはずなんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き比べると一耳瞭然の参考に。


天城越え~sachiko 小林幸子【越えちゃったラスボス幸子】


NHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」 新曲「あれから」

 

やはり何度聞いても泣ける。これは善いものだ。

 


【初音ミク】「マジカルミライ 2019」ライブ映像 - ブレス・ユア・ブレス / 和田たけあき【Hatsune Miku "Magical Mirai 2019"】

 ちょっと行ってみたいが、大人気でチケット取れないらしいw

 


5th Element: The Diva dance / Frédéric Chaslin, Inva Mula, London Symphony Orchestra

これ好き~3:33秒からが特に面白い。

 


進撃の巨人OP 紅蓮の弓矢 TVバージョン

これをひばりロイドに歌わせて笑った後、うすら寒い気持ちになってみたいw

 


【最後の映像】 美空ひばり/川の流れのように

 

本家はもうとめどなく泣けるw

 


お祭りマンボ(美空ひばり)

 

歌umeeeeeeeee!! これで振付師いないとかマジか~。

まさに不世出の天才。惜しまれるのも無理ないなぁ。

世代じゃないからあんまり聞いてなかったけど、ハマりそうw

天気の子を解釈する4 トリックスター、日本神話からの視点。

愛にできることはまだあるかい/天気の子

 

天気の子、まだ上映中なのか~。ロングランだなあ。

 

じゃもう少し書いておこう。

 

オカルトを越えていく爽やかさ軽やかさにすっかり魅せられて失念してたけど、

君の名はと同じに、名前に意味が込められていたので、そこから。

 

陽菜、帆高、凪、

これが日本神話の三貴神、三姉弟天照大神、月読大神、素戔嗚神と照応している。

(以下カタカナ表記)

 

陽菜の陽はもう太陽神アマテラスだ。「二人とも弟です」という発言がある、長女、長子、姉だ。

 

凪、が海に関係する名前なのでスサノオかと思うけど、

 

スサノオは最初は海を治めるよう言いつけられた神であり、
海は潮の温度差から風を生むところなので、
スサノオは台風や暴風雨、風の神でもある。

 

凪、というのは風がない状態のことだ。イマイチ感。

 

帆高、のほうが海と風のイメージだ。海で船に帆を張って、風をつかまえる。

 

帆高がスサノオなら、あとはツクヨミが凪ということになる。

河合隼雄の中空構造論なら、対立する二柱の神の間に、なにもしない神がいる。

中和、仲介、緩衝地帯、グレーゾーン、なんとなくなあなあにする役割の神様だ。

アマテラスとスサノオという対比なら、その時ツクヨミはなにもしない神だ。

なだめる、風や波をしずめる、凪にする。そういう名前かな。

凪センパイは、まあ確かに君の名はでいうところの奥寺ミキのポジションかもな。
「俺ガキだからさ」と力のなさを自覚してる。

 

帆高が凪をセンパイと呼ぶのもそれっぽい。

兄がツクヨミで、末子がスサノオなわけだから、兄に敬称がいるわけだ。

 

で、帆高が作中でなにも成長してない、共感しづらい主人公だという意見がある。

実に最もだと思う。

帆高は徹頭徹尾アナーキー、子供、あれも嫌これも嫌だとワガママを言い通したキャラって感じだ。

 

大人と子供の間で揺れてるのは須賀や陽菜や夏美だ。

 

っていうか、大人と子供は対比であり両天秤であり、内と外、公と私、夜と昼、陰陽のように一人の人間の中にその両方があると良いものっていうか。

子供が、成長して大人になるのが善いことかっていうと、ラストの社長須賀みたいな描かれ方なので、そうではないんだな。

 

子供なのに、無理して大人の振る舞いをする陽菜に、子供でいいんだよ、と帆高は伝えに行ってるというか。

 

帆高はやりたいことをやりっぱなしで責任をとらない。
家出も考えなし、
銃を拾うのも、銃を撃つのも考えなし。
拾った猫も須賀任せになってるし、

陽菜と凪を連れて放浪するのも考えなし。結局は警察と児相が保護した。

なんのアテもなくとにかく行動しちゃう。なんっっにも考えてないよ帆高ww

 

しかしまぁ、責任を負えるかどうか、とか考えてたら行動できなくなるというもの。

 

凪のように、子供である無力を噛みしめてる子供なんて、物分かりが良過ぎて気の毒になるというもの。

ただ、そうしたいんだという奔放で無軌道な衝動、情熱の方が先にあるもので、そういうのが子どもらしい心の在り方で、
責任をとる能力はその都度、色々周りの人に助けられたり間違いながら獲得していく。そんなもんで良いっていうか。

 

凪と帆高の対比で見てみると、
やっぱり帆高の方が末っ子のスサノオ的だ。
凪センパイは無力を自覚するあまり事態を動かすことができなかった。
なんも考えてない、やりたいという気持ちだけの帆高だから、無茶苦茶ができた。
でも、それで結果としては色々良かったわけで。

 

帆高は、成長する少年キャラじゃなくて、
神話的な破壊神やトリックスター
秩序を破壊し、新しい波を起こすキャラなんだと思う。自身は変わらず周りを変える触媒のようなキャラクターだ。

変化、ゆらぎ、エラー、異分子、新しい可能性、そういうものを内包することで大きな総体は健やかさを保つ。

 

まあ、TV版24話構成なら成長要素も入れてきたかもしれんけど。

だから、視聴者が共感できるのは帆高じゃなくて須賀のほうだったりするんだな。

 

トリックスターというのは覚えておいてドヤれるステキな概念だ。

一応ウィキ貼っておく。はてなキーワードの説明でも十分だけど。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA

 

で、トリックスターのウィキ見て、次にスサノオのウィキ見たら、
やっぱ帆高の雛型っぽい。

 

スサノオは出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。とあるw

須賀wwのところに身を寄せたとwwはいww

 

スサノオイザナギが鼻を濯いだ時に生まれた神だ。

鼻、息吹から生まれた神なので風の神でもあるわけだが、

 

同じく三貴神スサノオを題材にした荻原規子の空色勾玉でこんなセリフがあったような。
「あの子は父神の息吹から生まれた。
目から生まれた我らより、父神の内面に、心に近いのかもしれない。」

 

イザナギは、妻イザナミを黄泉から連れ戻すことはできなかった。
振り返ってしまい、千曳の岩で別れてしまった。

その後の禊、濯ぎで生まれた第三子、末っ子のスサノオは、
父の心の化身ゆえか、イザナミに会いたいんだと泣き喚く。

 

「あの人に会いたいんだ!」と泣き喚くwwはいはいww

 

で、まあ。
スサノオは会いたい人に会えたかっていうと会えないんだけど。
イザナミは千曳の岩以降、神話に登場しなかったはず。
スサノオは紆余曲折のあと、根之堅洲国、黄泉まで行くんだけどね。

 

君の名は、では黄泉から死者を反魂させる。
神話のバッドエンドをグッドエンドに改変してるわけだが。

天気の子でも、帆高は会いたい人に会い、連れ帰ってきている。
スサノオのバッドエンドをグッドエンドにしてる、と言えるかもな。

 

スサノオイザナギの妻への想いの化身、と解釈するなら、

陽奈はアマテラスでもあり、イザナミにもなる。オーバーラップで見れる。

 

アマテラスが姿を隠したエピソードといえば天の岩戸だ、

その場合、帆高はアメノタヂカラオ、夏美がアメノウズメって感じにもなる。

あのカーチェイスのドタバタが、岩戸の前でアマテラスの気を引いた祭事ということになる。

 

天の岩戸のウィキも一応。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8

スサノオが無茶苦茶するから、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。日蝕の神話化でもある。

姿を隠した太陽を呼び戻すのがアメノタヂカラオとアメノウズメだ。

でも天気の子は雨エンドなので、太陽が再び顔を出したというこのエピソードはあまりそぐわないとも言える。

陽奈は帰ってきたんだけど。うーん。青い石が割れてるからな。晴れ女=巫女=アマテラスでない、超常の力のないただの人間の女の子として帰ってきた、という感じか。

 

ややこしくなってきたww

まあ、なんにせよ、豊葦原中国の神スサノオが、
高天原のアマテラス、黄泉のイザナミを、
その世界を治める神の座から、違う世界に連れて帰ってしまうとなれば、それは大変なことだ。

帆高が陽菜を連れて帰ってくるのは、神話のお約束ではありえなかったことだ。

高天原も黄泉も、あの世、彼岸であるという点では変わりない。

人の世に神や死者をもろ連れてくるのは、基本そういうことはしたらダメなやつだ。

 

それは世界の秩序の破壊だ。


日本の神話では、結局、アマテラスやイザナミ、維持神が世界を越境することはない。

もし、維持神を据え置いて安定した世界から、 安定の象徴である維持神を連れ出したら、 世界は、再び混沌とする他にないだろう。

 

名もなく、わざもない、万象未だ凝らずあらわれぬ、原初の神話的混元へと回帰して、

創世神話、国生みのやり直しになりそうw

 

実際、日本神話やギリシャ神話を読んでいくと、
最初の方はダイナミックでスケールでっかくてワクワクするのに、
主神が世界を治めるヒエラルキー構造が出来上がってしまうと、なんか話が小さくなっていくというか。

最初は、天地とか時間とか生死とか、そういう大きな法則の神様があらわれてきて、
後半は、人間とそんなに変わらない神様や英雄の旅とか恋とか争いとか試練とかになる。

 

熱かったマグマが冷えて固まって形をつくるように、
世界はエントロピーが増大して複雑になり、
細部が精緻になると同時に、全体は大きな動きを失っていく。

 

創世の神話が、国譲りとかになってだんだん人間の歴史に繋がっていく。

 

インドの神話とかだと、創世神、維持神、破壊神、
ブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァ、とか三神一体構造になってて、
世界が安定してくると破壊して、また新しい循環(サンサーラ)が始められるという思想になってる。

 

完成したシステムを維持し続けるのでは熱的死を免れ得ない。複雑化は硬直となり、権力は必ず腐敗する。
循環、環構造、生々流転の方がずっと長~く面白い話を続けられる。

この構造をもつインドの神話は量がすごい。そういえば。リセットして周回できるんだな。

 

破壊を、死を内包すれば、それは代謝となり、総体の健康寿命は延びる。

 

破壊神、トリックスタースサノオが、
維持神アマテラスやイザナミを違う世界に連れ出すことが出来たというなら、それは秩序の破壊だが、
古くなった世界の破壊、硬直した世界の破壊でもある。 新しい世界の循環が始まる。

 

人柱で晴れる旧システムを破棄して、
今までと少し違う世界を、国生み、創世の神話をまた語り始めていいんだよな。

 

天御中主・混元、産霊神と上産霊神、陰陽の原理の神から始まる神代七代創世神はおかくれになり、

喜怒哀楽のある人格神があらわれ、万物を生じ国生みとする。

高天原豊葦原中国、黄泉と、性質によって棲み分けが決まり、

主神が治めるヒエラルキーの構造が出来上がり、津々浦々までその威光を行き渡らせシステムに組み込んでいく。

世界の在り方が安定したが故に、語り終えられてしまった日本神話に、

破壊を持ち込んで、リセットして、新しい文脈を開拓した。

そういう物語と言えなくも、なくもなくもないのではないだろうか。

 

 

 

うーん、元ネタで語ろうとすると、予備知識がいる感じになってオタ向け感がいなめないな・・・。

日本人なら古事記日本書紀のあらすじくらい頭に入っててもいいんだけど、本当なら。

まぁ戦争負けたからしゃーない。

 

それを知らなくても、天気の子はライトなボーイミーツガールとして楽しめるのがイイところなんだよ。

だから、まあ、これは余談だな。

 

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千と千尋を解釈する4 清めと葬送の物語。

108ピース ジグソーパズル 千と千尋の神隠し 海原鉄道(18.2x25.7cm)

 

 

さて、いつも何度でも と 六番目の駅 というところからもう少し書こう。

 

主題歌、いつも何度でも はとてもいい曲だけど、

 

千と千尋には、ふたたび とか いのちの名前 って歌詞つきの曲もあるんだけど、なんでこの曲が主題歌なのか。

 

いつも何度でもは、なんていうか死者に手向ける歌のようで、初見でこの歌がエンディングだった時には、

あれ?これもうハクには会えないんじゃ・・・って気がしたものだ。

 

ラストで、ふたたび や いのちの名前 が流れていたらそうは思わなかっただろう。

「また会える?」「きっと」を言葉の通りに希望あるものと思えただろう。

どちらもとても良い曲だ、下にリンク貼っておくけど。

では何故、いつも何度でもが主題歌なのか。

 

それは多分、もののけ姫から引き継いだテーマがあるからだ。

前記事でもさわりは書いてるけど。

 

いつも何度でも 

歌・曲 木村弓 詩 覚和歌子

呼んでいる胸のどこか奥で いつも心躍る夢を見たい 
悲しみは数えきれないけれど その向こうできっとあなたに会える 
繰り返すあやまちのそのたび ひとはただ青い空の青さを知る 
果てしなく道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける 

さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳を澄ませる 
生きている不思議死んでいく不思議 花も風も街もみんなおなじ 

呼んでいる胸のどこか奥で いつも何度でも夢を描こう 
かなしみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっとうたおう 
閉じていく思い出のそのなかにいつも忘れたくないささやきを聞く 
こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される 
はじまりの朝の静かな窓 ゼロになるからだ充たされてゆけ 
海の彼方にはもう探さない 輝くものはいつもここに 
わたしのなかに 見つけられたから

 

 こう、なんていうかな。スケールの大きい歌詞っていうか。

 

繰り返すあやまちのそのたび ひとはただ青い空の青さを知る 

 

とか言われるとだ。

もうただ空を仰ぐしか無いほどの過ちとは、どのくらいなものか?

なんか、戦争とか、負の連鎖とか、環境の汚染とか、原発のあれこれとか、失火からの熱帯雨林の大火災とか、

そういう個人の力ではもうどうしようもなくて、とりかえしのつかない大きな破壊とかな気がしないだろうか。

人間の種としての業、カルマ、人の傲慢とか原罪とか、愚かしさに絶望する、無力に打ちひしがれる、そんな感じっていうか。

 

千と千尋では、そこまでスケールの大きな破壊の描写はないのにだ。

重い惨い描写はなくて、賑やかで不思議な少女の冒険譚に思える。

 

が、物語の裏で、主のいる名のある川を大量のゴミとヘドロまみれにしたり、ハクの川を埋め立てたりはしている。

 

それは、環境の開発と破壊だ。

神々の住まう森を切り拓き人のテリトリーにした、もののけ姫からのテーマ、神殺しだ。

 

もののけ姫では、産土の神、土地神、霊格の高い化生である大猪や山犬や、もっと高位の存在、夜の神 命の神シシ神に、

矢を射かけるわ、爆破するわ、石火矢は撃つわ、森は燃やすわ、首は落とすわでな。

 

そこまでされれば神々といえども死ぬ。

花も風も街もみんな同じだ。森も川も、神もそう、例外ではない。

不変のものはなく、この世での物質の依り代、肉の器を失えば、去る。

 

こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される 

 

というのは、もののけ姫でうち砕かれたかがみ、鏡、神々、その上に千と千尋の景色があるってことのように思える。

 

鏡、かがみから、我、濁りを除けばかみ、神になる。という言葉があるけど、音の近さは、意味の近さでもある。

 

そして神々はどこへ去っていくのか、というのが千と千尋の舞台だ。

 

トンネルの向こう、川の向こう、境界の向こう、水の世界、あの世、彼岸、異界だ。

 

そこにまず湯屋がある。八百万の神様が疲れを癒すお湯屋だ。

酒やご馳走で宴会もできる。もてなされて寛いで、恨み、ケガレを吐きだし、

湯で血や泥や硝煙を洗い流し、水に流して、憂さを晴らすことができる。

 

お清めだ。

 

死者の心が癒え、次の世界に行く気持ちになれるまで、

まずそういう風にこの世のルールに近いところで過ごす。

 

オクサレサマになってしまった名のある川の主を、千尋が、人が、神様の湯浴みや清めを手伝って、竜神がこの世へ戻って行く姿、再生と復活の姿は、

人が神々を穢し殺したもののけ姫の後では、対照的な救いの描写になる。

 

そして、すでに帰る器のないものは、癒し清められればそこから先へ旅立つ。海原鉄道だ。

水の上を走るノスタルジックな電車には、黒い人影が乗り降りする。それは多分人界の死者だ。

 

「最近は行きっぱなしで帰りの電車がない」ていうのは、この世の方で精霊馬とかお盆で死者を迎える儀式が廃れてるってことかもしれない。

 

で、黒い人影は割とすぐに降りていく。

 

六つ目の駅まで行くのは千尋の一行だけだ。

 

千尋カオナシと坊ネズミとハエドリと、そして多分、千尋は最初から前作の神々とも一緒にいるんだな。

この世からあの世へ、湯浴みをして六つ目の駅へ。

 

それは葬送、お見送りだ。

 

人の魂の行くより、もっと先、幽界の上、異界の奥

 六道輪廻、六界か、天動説の七曜の天球か、シルバーバーチか、存在の7層か、

どんな世界観を採用するかにもよるけども、

六つ目というのはもうほぼ最奥、最上に近いと思われる。

 

神々はそういうところへ去っていくのかもしれない。

 

で、千と千尋の物語で、今は去った神々の在り処について想うから、

次作のソフィで人の身でありながら最奥に達することができるし、

その次作のポニョでは、地上のルールをひっくり返して命の水で満たし、遥か古き神、泡から生まれた太古の海の女神、グランマンマーレを呼び起こし、描くことができる。

 

なんかこう連綿とテーマが進み、紡がれ続けてるんだよなあ。

 

だいたいそんな感じだ。

後はもう少し、いつも何度でもの歌詞から、いつも言いたいことを書く。

 

ゼロになるからだが耳を澄ませる、

ゼロ、というのはいつも言いたいアレだ。

無とか空とか、愛とか混元とか。言葉にはならないんだけど、そういうものだ。

これはとても優れたインスピレーションの歌だと思う。

魔女宅の主題歌 優しさに包まれたなら と同じような歌だ。

 

海の彼方にはもう探さない 輝くものはいつもここに 
わたしのなかに 見つけられたから

 

千と千尋では、海原鉄道の彼方まで神々を送りに行くわけだが。

神様が去ったのは、海の彼方、果てしない道の先、遠い遠いどこか、ずっとずっと上の方なんだと、そうと思えばそうでもあるんだけど、

一度そこへ至り、それと気が付けば、それは実は遍在するなにかだと解る。

これはもう、ものの道理の解った人は千年も前から言い続けてることだ。

 

 イエスキリストも「神の国は汝らの中にあるなり」「天国はあなた方のただなかにある」と仰せであるぞw

遥かな未来でもなきゃ、死後でもない。神や誰かに与えてもらうものでもない。

それは、自分のなかに見い出すものだ。二千年も前からそう言ってるんだよなあ。

 

まあ、マインドフルネス、瞑想のコツだ。目指すべき一種の境地というか。

胸の奥からの呼び声を聞く、カーテンを開く、そういう心の状態をつくるのは、自分にしかできない。

こればっかりは百万言を費やすより、一回の実体験がモノを言う。

美味しい料理の話をするなら、グルメ本を百冊読むより、一度は食べてみないとねw

 

まずは、静かで落ち着けるところが必要だ。

電磁波とかハウスダストとかも少ないところがいい。

自分は軽く体操してから風呂で電気と換気扇を切ってやる。一日20分くらいが推奨らしい。

 

存在の七層の概念、上昇法でやるなら、全身のチャクラを色を使って意識して、頭の天辺からどんどん上に上昇する、とイメージする。

幽体離脱みたいに、自分を越え、自分のいる街を越え、地球を越え、神々のいる層を越え、法の層を越え、そこへ、創造の領域へ至る。

神々の去るところも、宇宙も、あらゆる法則も、すべての有限の相を、そっと越える。

カーテンを開く、木漏れ日のような優しさと静けさへ、至る。

窓を開く、朝がはじまる直前の静けさ、そこはゼロで充たされている。

不変、普遍、無辺、無限、そこにはすべてがある。満ち足りて凪いでいる。

全知全能ゆえに零知零能となる。

なにもかも可能なんだけど、創造されれば有限のなにかに成らざるを得ないから、無限はただそこに揺蕩うだけ。万象未だあらわれず、名も無く、わざもなし。

とか、まあ、そういう感じがする。

 

最初は色んなものを越えていくイメージの手順が必要なんだけど、

今、いつも、ここにも、それがあると、その感覚が確かなものになれば、

割とどんなアファメーションでもできるようになる。

全は一、一は全、梵我一如でもいけるし、色即是空 空即是色でもイケる。

身もなく心もなく名もなくわざもない、でもイケるし。ひっくりかえす、でもイケる。

ありがとう、許されました。とか、愛してる、でもいい。

その幻想をぶち壊す!イマジンブレイカー!とか中二丸出しでも意外と間違いではないww

歌ってもいい。いつも何度でもとか、優しさに包まれたならとか、ジュピターとかもいいかも。

 

なんでもいい。脳と身体と気でその状態ができてるなら。

瞬時にフッとその状態をつくれたなら、ある境地を得たその道の達人ということになるだろう。

右脳と左脳の働きが釣り合って、処理が高度向上しつつ凪いでいる。

シータ波とかオキシトシンとか検証すればそういうモノが出てるだろうなっていう、

そんな状態を自分のコントロールでつくれるようになることだ。

 

脳がゼロな状態、空な状態、マインドフルネス状態をつくればインスピレーションが来る。

そうすると日常のあらゆることがちょいちょい捗る。

仕事しててすごくイイ感じが来るとか。工夫を思いつくとか。

イラッとした時それを繰り返さず手放せるとか。ときめくものが目に入るとか。

選択を迫られたとき、自分の心が望むものを知り、選ぶことができる。

 

 

・・・・・いや、まあ。

そんなに熱心に布教したいわけでもないかもなぁ。

スレを始めた頃はめっちゃ新鮮で感動してたから、誰かに伝えたくてゴリゴリ書いたけど。

なんかもうラジオ体操くらい日課としてフツーにやってるしな最近。

0のやすらぎ、有限と無限の表裏一体の世界観が当たり前過ぎて、

どうでもいいガラクタを山盛り背負って意味もなく苦しかったころの感覚を速やかに忘れつつある・・・。

 

まあ、テレビをつければ今日も昨日と変わらず、世界では悲しみと苦しみと思い込みが渦巻いて繰り返しているんだが。

 

それも自分が参加する大きな環の姿で、大いに関係はあるんだけど。

まず自分という小さな環、その内側に、確かな平和をもたらす方法があるんだなっていう、そんだけの話。

 

輝くものは、いつもここに、私の中に見つけられたから。

 

これは誰にでも実現することが可能な、ひとつの心の在り方だ。

まず欲すること、そうすれば全てのものがメッセージだったことに気がついていける。

千年も二千年も前から、ずっとみんなそれを伝えようとして、あれこれ手を変え品を変えしてくれてたんだなぁ、って思うわ最近。

 

 


木村弓   「いつも何度でも」

 


平原綾香 ふたたび 千と千尋.wmv


久石譲in武道館 - "いのちの名前"

 


平原綾香 ジュピター 高音質 (full ver) 【宇宙、星、空】

 


やさしさに包まれたなら - 荒井由実(松任谷由実)

 

 

 

 

 

 

天動説・七曜の天球の層とか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8B%95%E8%AA%AC

宮崎駿作品を通して解釈する3 成長していく主人公像。

 

宮崎駿監督作品集 [Blu-ray]

 

 

赤毛の魔女ほど込み入った設定ではないけど、

男の主人公も全作品を通して見るとなんとなく変遷がある。

パズーはどうしてああも身体能力が高いのか、という疑問から仮説にしてみた。

 

魔女宅で登場する女性たちが、女の一生の各ステージを象徴していたのと見方は一緒だ。

 

 

主人公達は、全員でひとつの道を歩いている。

ひとりの人間として精神的に成長していっている。そんな感じだ。

 

まず、アスベル、パズー、カンタ、トンボ、

前半の全員に共通するのは飛行機械いじりだ。
アスベルは工房都市ペジテの少年、メーヴェを修理できる。
パズーは飛行機を作ってる。鳥を模した小さな飛行機を飛ばす。
カンタも縁側で飛行機のオモチャを作ってる。
トンボもプロペラ付き自転車、エンディングで人力飛行機に乗ってる。

 

宮崎駿は 飛ぶ ということに格別の想いを抱いてるけど、
飛ぶ力、魔法をもっているのは、いつも女性だ。
男の子達は、魔法でなく機械の力、科学のアプローチで飛ぼうとする。
それは象徴的に符号する。
女性性は受け入れるもの、感覚の力、右脳的なもの、魔法で、
男性性は積み上げていくもの、理知の力、左脳的なもの、科学っていうかね。

 

でも、男の子達がその機械で、一人で颯爽と空を飛べるかっていうとなかなか厳しい。

 

アスベルも飛行機を失って腐海を迷ってるとこで出会う。ナウシカメーヴェに乗せてもらう。
パズーも凧にはシータと一緒に乗ってる。
カンタは、サツキが黒髪だ、魔女ではない。
トンボはエンディングで飛んでる。側にキキがいるけど。

 

延々と少年達が作ってた飛ぶ機械の蓄積があって、魔女達に飛ぶ感覚を教えてもらって、
やっとトンボで飛行機が完成したから、
紅の豚飛行艇乗り、パイロットの物語ができるのかもしれない。
まぁ、それもフィオのフォローがあるけど。

 

で、もののけ姫、アシタカでは空は飛ばない。
魔法なし、魔女なしで、どこまでやれるかアシタカは足掻き通す。

で、アカジシと一緒に駆けめぐり、シシ神にはなにかを授けてもらったようにも見える。

少女ではなく、赤い毛並みの獣や神と。

より近く、より高みの存在と交流し、より深くなにかを得ているのかもしれない。

 

するとハク、ハウルでは、飛行機なしで飛ぶことができるようになっている。

ハクは竜、少年像が神性を得ている。男の子が魔法を体得している。

…が、まだ女主人、母性による支配がある。

 

そうすけでは船だ。ポニョが魔法で大きくした船で航海する。

 

次郎では、また飛行機。
次郎は夢の中で、一人乗りの飛行機に乗って飛ぶんだけど、そびえるモノリスのような飛行機に砲弾を落とされて、落ちる。

 


アスベル、パズー、カンタ、トンボ、ポルコ、アシタカ、そうすけ、次郎。

割と、順番に精神的に成長していってるみたいにも見えるんだよなぁ。

 

アスベルは完璧なナウシカの背を見ている。母に庇護されている幼児期的だとする。

いやアスベルもかっこいいけども。

ナウシカでは主人公ナウシカが常に物語を動かしていて、それ以外の全員が、聖母で英雄の彼女の背中を見ているだけ、仰ぎ見ているだけ感があるような気もね?みんな「姫様、姫様~」っていうさあ。

子どもにとってカーチャンが世界のすべてっていう時期があるよね。

 

パズーのあの身体能力の高さは、少年期の万能感そのもののような気がする。
小学校低学年くらいの、なんでもできそうな無敵の気持ちのまま、パズーはなんでもできるというか。

公園で初めて会った誰かともすぐ仲良くなって、川でも廃墟でも、なんでもない場所でも毎日が大冒険だ。

 

カンタで初恋、小学校の中学年くらいか。

気になる子に素直になれないお年頃だ。

だんだんと社交性、他者との関係性、友人や異性との関係が重要になってくる。

いつもの人達、いつもの場所、子どもなりのテリトリーが定まってくる。

 

トンボは友人に囲まれている。 魔女子さんをナンパするのも余裕の社交性を身につけているw
飛行クラブで、みんなで協力して飛行機を作ってるらしい。そういう絵はないけど。

集団の力で何か作るというのは今までより一段階進んでる。

パズーは一人で飛行機作ってたからなあ・・・。

できる気がするのは分かるが、実際に独学だけでそれができるかどうかはちょっと疑問が残るw

 

ポルコでは、フィオとピッコロ社の女性達が工場でてきぱきと分担して作業する場面があって飛行艇が作られる。高度な技能職、プロのお仕事だ。
ポルコは、戦争に参加しないアウトローだ。賞金稼ぎも海賊も、カタギではない。

紅の豚は、戦争という国家の一大事に、成人男性としての責任、国民の義務ってやつを果たさないで遊んでる男達の物語、という見方もできるw
つまり、まあ反抗期。あるいはモラトリアムだな。成長の段階として見るなら。

 

アシタカは異邦人だ。

故郷を離れて、共同体の構成員ではないが、でもそれを獲得しようとしてる。出来ることを探している。
それを、家を出て、社会に自分の居場所を探そうとしてる、 と見立てるなら学校を卒業して仕事をはじめるくらいかな。

 

ハクでブラック企業に勤めてしまって病むw
名前を取り戻して「話をつけて弟子を辞める」と宣言する。

 

もののけ姫で女性性の神性、夜の神、自然の神シシ神を描いた後は、

女性性、母性のダークサイドが描かれるようになる。

母は子を慈しみ育むが、それは支配や抑圧と表裏一体だ。

聖母と魔女の表裏一体だ。光を描いた後は、闇を描く。

湯バーバやサリマン、子を捕らえる恐ろしい母を描き、

ドーラの時は「ママ、ママ~」だった男性像は、坊やハウルとなり家出して対決して母を越えていく。

 

ハウルで、母性からの自立だ。

宣言するまでだった「話をつけて弟子を辞める」の意味するところを実行してる。

対峙して、精神的に越える。

 

サリマンは雇い主以上の、後継を求める師だ。 
ブラック企業であれば辞めれば後腐れないけど、
毒っぽい親、過保護な親とかになるとそうそう縁が切れないのが難しいところ。 
もう年齢は人によることになってくるだろうけど、 一人で生活を成り立たせるのに慣れてくるぐらいの年となると20代いっぱいとかはかかるかもね。

 

そうすけは親を名前で呼ぶ。

それは母性から自立したハウルの後だからそういうことになるのかも。

母性、母親と対等以上にまで成長して、「素敵な赤毛ね」と言わしめた作中で最も赤い髪、優れた魔女のポニョと結ばれる。

赤毛ヒロインとのカップル成立は今までの主人公達にはできなかったことだ。

 

で、次郎だが。

風立ちぬからは、女性性・母性の物語から、男性性・父性との物語への転換がある。
次郎の飛行機を落とすモノリスは父権の象徴だ。
風立ちぬ全編を見ても、父権を越えられたかというと…、うーん。
母性ほど鮮やかには越えてないんだなw
大体それらしいんだけど、なんかモニョモニョしたところがあるw

 

風立ちぬの記事も書かないとアレなんだけど、

次郎は玄関を通らず、庭から菜穂子の部屋に入る。これはなんか変なんだ。

 

ソフィとハウル、そうすけとポニョ、二郎と菜穂子。

これらのカップルは結ばれはしたが、そこから、ひとつの新しい家庭として船出まで出来てるかっていうと、ちょいちょい微妙なところがある。

 

宮崎駿自身が、天職で身を立てるまでは良くても、ちょっと家庭における父として、息子を育てる男親としてはアレなんだろうね・・・。

創作物の登場人物は、作者自身の鏡だ。

作者ができないことをキャラにやらせると説得力にならない。なにかが破綻するw

 

次作の主人公でそれを越えられるかどうかだ。
順当に行くなら、家の中心、居間や食卓に両親と子供が揃ってる場面が描かれるかどうか、とか、

息子的存在を育ててる父的な存在が登場するかどうかに期待したいw

 

トトロの父、魔女宅の父のような優しいパパはいわゆる父権的ではない。

もっとこう・・・威厳とリーダーシップのある感じがだな。

ラピュタの親方は割とそれらしいけど、おかみさんの尻に敷かれてる。

なんていうか、夫唱婦随っていうか。陽が動き陰が従う、そういう在り方を描けるだろうか?

 

宮崎駿の主人公像は、聖母に導かれるところから始まって、女性性の力・魔法を得て、母性の試練を越えた。

仰ぎ見ていたものを、同格の伴侶とすることができた。

 

その次は、主人公は、子を得て父親になれるだろうか?

 

あ、ゲド戦記は見てないんだけど、あれって弟子を連れた師匠キャラが出てくるのか。

そういう関係性こそがどうしても描けなかったヤツだ。

 

映画ナウシカのラストでユパとアスベルが共に旅立った、その後の文脈を継ぐキャラが出てこない。

 

ハウルマルクルは師弟関係のはずなんだが、

ハウルマルクルを育ててはいない。

師弟の関係にだけ注目して見ると、交流の描写がほぼ無い

 

マルクルハウルを見て二度「死んじゃったかなぁ」と言う。

弟子が師匠に、息子が父にかける言葉にしては、あまりにもなんつーの?

薄情というか…、情がわくような思い出も思い入れもなかったんだろうな…っていう言葉だ。それを二度言うて。

倒れてるのがソフィだったら「死なないで」と言うだろうに。

 

まあ、天才も人間だからなあ。別に父権を描けなくてもいいとは思う。

今までの名作が色褪せることはない。

 

父権を越える物語が見たければ、それはそれで色々あるしね。

こないだのアニメの手塚治虫原作のどろろはお手本のような出来の良さだった。

キングダムとか進撃の巨人とか、落語心中とか、マギとか、鬼滅の刃とかもいいかもしれない。

魔術士オーフェンとか、それこそゲド戦記(原作)とか。

 

将と兵、魔王と勇者、師弟、父と息子の物語も普遍のものだ。

 

転スラとかオバロとか、主人公が魔王になり、目下に慕われ国を造る、自身が父権を獲得していく物語も流行りだ。

 

 

 

追記。

ポルコとアシタカの間に、耳をすませば天沢聖司を入れても矛盾なく成立したw

 

天沢聖司は、雫と結婚の約束をして、バイオリンの専門学校に留学するという。

 

ジーナを待たせっぱなしのポルコから、ちゃんと将来を約束してる、男の責任感ってやつを発揮してる。

女の子には待っててもらいつつ手に職つけようとするってのは、

反抗期を終えて、真面目に将来設計してる

バイオリンも工房で作ってる。試行錯誤して技能を習得してる。

 

で、実際に社会に出て自分を試すのはアシタカのターンになるわけだ。

 

 

 

 

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天空の城ラピュタを解釈する1 漫画版ナウシカとの対照

天空の城ラピュタ [DVD]

 

 

 

ラピュタはイイ・・・。

なんかもうOP見て聞いてるだけで謎の感動で涙ぐむww

冒険活劇の傑作で、時代の集大成って感じ。

 

というわけでラピュタは観たままに楽しめばいいだけで、

解釈ってほどのこともないと思うんだけど。

 

今までの赤毛の魔女設定や父性の欠如という観点からも符合はしてるのと、

あと、ラストシーンは漫画版ナウシカの救済にもなってると思うのでその辺まとめとく。

 

ラピュタ赤毛の魔女というとドーラだ。

母性の力で、息子たちを従えている。

「いつまで経っても子供なんだから」とドーラがグチる場面があるけど、

ドーラ自身が子供を自立させない母、支配する母性でもあると思う。マ・ドーラ、マドンナ、聖母、母なるもの。そういう名前だ。

 

鉱山の町で親方と息子たち、ルイ、シャルル、アンリが乱闘になる楽しい場面があるけど、

あそこで三人の息子の服装に注目すると、白いスーツ、ピンクのシャツ、黄色いネクタイ、白い帽子に緑のリボン。という恰好をしてる。

とてもオシャレなカラーリングで白スーツなんていう奇抜で難しいアイテムを着こなしていると思うが、

三人ともお揃いの服ってことは、あれはドーラのセンス、チョイスなんでないかな。

成人した三人の息子に、七五三のような服を見繕ってやる、お仕着せの服を着せている、そんな感じだ。

息子以外の部下は紫のスーツで、オートモービルは素敵な緑で、ドーラ一家はオシャレ海賊だ。

 

しかしフツーに考えれば、成人して自立した男性は、カーチャンがくれる服は着ない。

自分で、自分に似合う服を選んで着る。

仮にカーチャンのセンスが良いから選んでもらうとしても、兄弟とお揃いの白スーツでは何の罰ゲームかとwお断わりするだろうw

 

が、あの三人兄弟は何かと言えば「ママ、ママ~」だ。

ドーラはパズーには「船長とお呼び」と言うけど。

息子達にはママ呼びを許している。

公私のけじめをつける気もなく、息子と自営業、海賊をやっている。

 

「お前たちも嫁にするならああいう娘にしな」っていうけど、

そんなマンマユート共に嫁はこねーよww

 

さて、鉱山の乱闘もすごい楽しい場面なんだけどもだ。

おかみさんも割と髪赤いよねw

 

親方、というのは父性、父権の存在だ。

構成員に仕事を与え命令をする、同時に庇護し教育し、

全体を把握して、共同体を運営する指針をもつ。王、長、責任者だ。

 

しかしラピュタの親方は、象徴的には親方とは言い難い。

 

彼はパズーの「空から女の子が」の訴えをスルーし続けるwスルー三回はもはや「そう読め」という監督からの示唆w

「いい子じゃないか、守っておやり」というのはおかみさんなのだ。

 

象徴的父権であれば、パズーの報告を受け、対策を講じ、パズーに「その子を守ってやりな」と使命を与えて送り出す、そういうのが親方の役目のはずだ。

 

乱闘の場面でも、まず互いに筋肉を披露するってのは、

どっちが強そうかケガする前に把握できる、割と動物として正しい喧嘩の作法なのに、

「誰がそのシャツを縫うんだい」で、おかみさんがせっかくのマッチョイズムを尻に敷いちゃうんだよなww

 

守っておやりと使命を与え、シータとパズーを裏口から逃がし、

フライパンをもってドアの前に立つおかみさんこそが、あの場のマスターだ。

そして乱闘はドーラの登場で終わる。

女性性の掌の上の男達、そういう構図なんだな~。

 

父性、父権というなら、親方もそうだけど、将軍もそうだ。

閣下と呼ばれる将軍が出てくるけど、名前がモウロ将軍というらしい。

モウロ、もうろく、耄碌ですね、分かります・・・。

 

youtubeで配信中の名探偵ホームズ宮崎駿演出の海底の財宝って回で、

モウロ将軍にとてもよく似たキャラが出てきた。声も同じ、永井一郎だ。

大佐と艦隊司令官の双子なんだけど、まあ同一の造形で、目がもうw今やると放送コードに触れそうwロンパリてやつだ。

大層な役職は名ばかりで金に目が眩んでる乱心キャラだ。部下への指示は「ついてこい」とか「撃ちまくれ」とか煽りだけで、腹心の部下とかそういうキャラがいない。

f:id:philia0:20190913214610j:plainライサンダー大佐

 

宮崎駿には、父性・父権が描けない、てのはつまり、父と息子の関係性が描けないってことだ。

これは全作品を通して言える。風立ちぬまで行ってようやくそこに焦点が当たる。

 

いや、親方がパズーに昇降機の操作を任せるところは、かなりイイ感じなんだけど。

「おまえやれ」で任せて「やりゃあできる」で励まして「ブレーキ!」でちゃんと監督しててなあ。

ムスカが将軍閣下を海に落とすところも、まあ、なんか惜しいんだけど。あそこで立体映像じゃなきゃなあ。

もののけ姫でも乙事主にはちょっと腹心ぽいイノシシもいたんだけど。

 

うーん。まあ、親方とパズーは風立ちぬ以前では一番それらしい描写ではあるのか。

 

父性、父権というのは、RPGで言うところの勇者を送り出す王様と、勇者が倒すべき魔王、その表裏一体だ。

息子に指針を示し、送り出して、最後には壁となって立ちはだかり、戦って越えるべきもの。父とはそういうものだ。象徴的に。

父さんが遺した熱い想い、母さんがくれたあの眼差し、っていう歌詞とかもそんな感じするじゃん?

 

ラピュタでいうと魔王ポジションはムスカだけど、彼は特務の青二才と言われてて、その通りだ。青二才。

彼も父権ではない。部下との関係性を築けてないからなー。

 

ムスカは、クロトワやゴンザに近いキャラクターだ。

 

シータは、黒髪のヒロインだけど、赤い髪留めと最初は黒い服を着ている。

これはキキと同じカラーリングだ。赤毛ではないけど、長い髪に赤と黒を身に付けた魔女だ。

 

ルシータ・トエル・ウル・ラピュタ と ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ

 

トエルがトゥルー、ture 真の、という意味なら、

パロというのはパロディ、模倣、副次的な、二次的な、語源的にはギリシャ語で para 傍らに、側に、という意味だ。

 

日本の古代王国、邪馬台国・ヤマトでは、卑弥呼・日巫女という女王を据えて、弟を副王にして国を治めたって話がある。

男の王では争いが絶えず、巫女を象徴的な王にして実務は男がやるってことで上手く国が周るっていうのは、

割と今でもそうだ、天皇家を祭祀の王にして、実務は政府がやるとか、分権にすることでうまくいくんだな。

「お母さんもおばあさんも、そのまたおばあさんも」飛行石は女系で継承されていた。

ラピュタでも代々の女王と補佐する副王というシステムであったのかと思われる。

 

シータとムスカは、クシャナとクロトワ、エボシとゴンザのような関係性ならうまくやれたのかとも思う。

 

「流行りのドレスは嫌いかね?」でムスカがシータに服を贈ろうとする場面があるが、それが真っ赤なワンピースなんだよな・・・。赤、魔法の色、魔女の色。

もし、あの贈り物を受け取っていたなら、女王と王佐の関係が成立する展開になったのかもしれない。

 

まあ、シータは滅びた国の王様に興味はなかっただろうけど、

「あたしの若い頃にそっくりだ」とドーラが言うように、男達を従えるカリスマ、魔力、魅力はあったんじゃないかな。

シータはあらゆる場面でマジ有能だからな~。

 

玉座の間でゴンドワの歌「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。」

シータが決然と威厳をもって、彼女の王国の理念を掲げた時、あそこにも最後のチャンスがあった。

ムスカはワンチャンあそこで王佐となる道を選ぶこともできた。かもしれない。

が、彼はシータの首元の三つ編みを撃ちとばし、「ひざまづいて命乞いをしろ」と言う。

 

首を撃つのも大概だが、

髪は魔力の媒介だ。それを失えば魔力やカリスマを失うという意味になる。

ひざまづいて云々も、精神的優位に立ったシータへのマウンティングだ。

 

クロトワやゴンザになれたはずの2度のチャンスを無駄にしたムスカなわけだが。

これは多分、ムスカは目が悪いんだろうね。「目が、目がぁ〜」っていうのもそうだけど。

基地で一瞬サングラスの奥の目が見えるけど、瞳孔の色が薄い描写がある。

瞳孔、というのは孔であり、外界の光を吸いこむものだ。だから基本は黒で表現する。

色がついてるってことは光を反射してしまってるってことで、それでは視力が正常でないということなのではないか。

 

目の色が薄く、夜でも地下でもずっとサングラスを外さないのはダブルミーニングだ。

弱視、目が悪くて、だからシータの本当の姿が見えないということ。己が仕えるべき女王が見えない。

 

女王と副王の関係は結ばれず、ラピュタはトルメキアやタタラ場のように新たな国となることはなくなる。バルスするしかなくなる。

 

ところで、ラピュタには宮崎駿のオリジナルクリーチャーであるキツネリスが再登場するが、わざわざ共通項を示したんだから何か意味あんのか?とナウシカラピュタを重ねてみようとすると。

漫画版ナウシカのラストもラピュタと似たところがある。

玉座の間で対峙するシータとムスカは、墓所で対峙するナウシカと番人に似ている。

 

失われたはずの古代の超文明が、眠りから覚めて再び世界を覆うかどうかってところで、

 

シータがゴンドワの歌を掲げたように、ナウシカも番人にこう言い放つ。

 

「お前は、亡ぼす予定の者達を
あくまであざむくつもりか!!

おまえが知と技をいくらかかえていても
世界をとりかえる朝には結局ドレイの手がいるからか


私達のからだが人工で作り変えられていても
私達の生命は 私達のものだ
生命は生命の力で生きている


その朝が来るなら 私達はその朝にむかって生きよう

私達は血を吐きつつ くり返しくり返し
その朝をこえて とぶ鳥だ!!


生きることは変ることだ
王蟲も粘菌も草木も人間も変っていくだろう 腐海も共に生きるだろう


だが、お前は変れない
組みこまれた予定があるだけだ、死を否定しているから


真実を語れ、私達はお前を必要としない」

 

で、ナウシカ巨神兵のビームで墓所を滅ぼす。バルスだ。

 

ザマーミロというラストではあるんだけど、漫画ナウシカではちょっと後味が微妙なところがある。

ナウシカは、墓所に保存されていた新しい人類の卵、世界の浄化が済んだら生まれる予定の、争わず穏やかで賢い人間達になるよう設計された究極のデザイナーベビーみたいなものもまとめて滅ぼした。

破壊と慈悲の混沌のナウシカは、破壊した後でそれを悔い憐れむっていうかね。

「自分の罪深さにおののきます」とか言う。

で、戦争や少子化や石化の病や腐海の毒に侵される世界に帰っていく。

傲慢な支配者の計画を白紙にして退けたはいいものの、

問題は山積みのままでどうしよう、でもとにかく生きねば、

というラストなんだ。代を重ね適応していく一縷の希望がないわけでもないけど、重い。重過ぎる。

 

その次の作品であるラピュタでは、そういう葛藤を越えて、バルスの後がほんとに軽やかだ。

ラピュタにも中庭に墓所がある。でもそれは大樹になかば飲み込まれ、その大樹はドームの天井を突き破って空へ伸びている。

その場面の劇伴、音楽がまたイイんだよな~。雄大で明るい。

終わった文明が、自然に還っているのを肯定的に表現している。シータも微笑む。

 

バルスしたラピュタは、大樹の根で崩壊が止まり、空へ昇っていく。

エンディングを見てると、ドーム部分が白く光ってるので、空調的なものがまだ生きてて、ヒタキやキツネリスなどの鳥や小動物も生きていけるんじゃないかって感じがする。

竜の巣に覆われていたころのラピュタからすると、動物たちも閉じ込められて外に出られなかったのが、

雲は晴れて、開かれた環境になって、少しずつ世代交代しつつ高高度への適応もしていけるかも知れないし。

 

漫画版ナウシカでは、墓所で超科学が劣化しないまま永く保持され続けていた。

生き物になる予定の卵だけ抱えて、肉体の無いプログラムのような番人がそれを管理していた。

 

ラピュタでは、700年の時とともに自然がそれを侵食していくんだよな。

 

不変のものなどない、世界は変わり続けるものと共にある。

世界は死者のものではなく、生者のものであるというラストだ。

 

神林長平のSFにそういうのがあったなあ。

コールドスリープ、冷凍睡眠、生命体を眠らせ続け永い時を越えることはできない。

なぜなら、命というものは止めておけない。止めてしまえば死んでしまう。

代謝し続け、変わり続け、死を内包して生き続ける、動的平衡を保つダイナミクス

生命活動している状態こそが、すなわち命の本質なんだと。

クソ分厚い文庫の中でそこだけ鮮明に覚えてるんだがw膚の下だったかな。

 

どれほど優れた超文明であったとしても、

墓所とまで銘打ってそこへ引っ込んだのなら、もう潔く死んでおけってことだな。

 

天空の城ラピュタも、それを支える飛行石を産出していただろう鉱山の町も、

かつての繁栄の跡は廃墟になり、自然や日の光や時の流れや色んなものに覆われていって、

今生きる人々がそこで素朴な暮らしを営んでいる。それでいいんだと思う。

パズーがトランペットを吹く場面で、荒廃した鉱山跡を朝日が真っ白に照らして鳩が飛んでいく場面とかも、

なんとなく漫画版ナウシカで荒んだ心が癒される情景だと思うんだよな~。

人が穴だらけにしてしまった土地を、朝日と鳥が再生させている。

 

あ、鳥といえばだ。

 

ナウシカでも飛ぶものは蟲と鳥の二種類の対比で出てくる。

メーヴェはカモメという意味で、ナウシカは鳥の人だ。歌のタイトルにもある。

 

パズーは鳩を飼ってて、鳥型の飛行機模型を飛ばして、シータと乗る凧も鳥のシルエットだ。

 

ドーラ一家のタイガーモス号は灯盗蛾という虫の名前で、フラップターも虫の羽、虫の羽音で、繋いで飛ぶと虫の体節構造みたいになる。ヘビケラみたいだ。

 

まあ、どっちも飛行するものだけど、虫の羽より、鳥の翼のほうが飛行能力は高いな。

 

ラピュタの解釈はそんなもんかな。

パズーについては、全作品の男主人公比較で次記事にまとめたい。

 

あ、滅びの呪文がバルスでたった一言で、

「光よ甦れ、我を助けよ」がリーテ・ラトバリタ・ウルス、アリアロス・バル・ネトリールでめっちゃ長いのはなんでだろうって質問があったので、

一応思ったことを載せとくと、

 

「滅べ」「閉じよ」とかでバルス

「光よ甦れ、我を助けよ」でリーテ・ラトバリタ・ウルス、アリアロス・バル・ネトリール

 

割と古代語とかラピュタ語でそのまま言ってるだけなんじゃないかな。

 

効果もバルスは全システムの崩壊で、

リーテ・ラトバリタなんとかは、

飛行石が光ってラピュタの位置を示す、ラピュタが主を迎えに来る、ロボット兵の再起動、ロボット兵が主のもとへやってくる。とか確認できる効果が多いので、複数の命令が組み合わさった言葉なんだと思う。

 

しかしまあ、王の言葉ひとつで自壊する都市機能ってのはなんだろうね・・・。

フツーに考えてそんな都市には安心して住めないんだがww

 

ラピュタの形状と武装の多さからして、城とか都市っていうか城塞都市なんだろうか。

モン・サン・ミシェルっぽくもある。

地上のすべてを焼け野原にできる火力と科学を、万が一にも不心得者に渡すわけにはいかないと、そういう覚悟が必要になるような世の中だったんだろうか。

なぜわざわざ空中に城を浮かべたのか、なぜ滅びたのかとか、色々想像してみて面白いところではある。

談話室に書き散らかしたけど、どれも確信に至らないので割愛。

 

バルスが「平和」を意味して全武装解除の恒久的平和宣誓をするための言葉だったという説もあるけど。うーん・・・、まあそれも夢があっていいよね。

 

 

 

 

 

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ファブリーズを解釈する。CMは注文の多い料理店。

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金ローでジブリは楽しいが、どうしてもCMが入る。

それも醍醐味かも知れないが、いつも戦慄するのがファブリーズのCMだ。

 

支配するものと対立せず、内なる完成を目指すのがブログのテーマなので、

嫌いなものは多々あれど可能な限りディスりは避けてきた。

嫌いなものについて書いても興奮するばかりで楽しくないし。

 

しかしまぁ…、対峙の段階も一度は必要だ。

ハウルも一度はサリマンに会いに行く。

 

できるだけ、好きな方向から書こう。

心理学や宗教論だ。

単純接触効果というのは心理学の用語で、よく見るものはそれだけで好感度があがってくみたいなこと。

エトスというのは小室直樹の宗教原論で言及されていた意味で使う。

行動様式、行動パターン、そういうもののことだ。

小室直樹は宗教の本質はエトスにあるという。

 

人は、なにか考える、それから行動にうつす。ていう順番で何かしてると思うじゃん。

でも、行動が思考を形成してることも同じだけある。相互作用なんだ。

 

マザーテレサの名言にこういうのがある。

 

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから、

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから、

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから、

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

でも、これらはすべて相互に作用してるものだ。

 

行動パターンを変えることで、習慣を変えることができる。

習慣を変えることで、思考を変えることができる。

それらはいつか運命として収束していく。

そういうことが、ある。

 

ウィキをみるとファブリーズってのは、1999年に発売されはじめた。

洗濯機で頻繁に洗えないカーテンの消臭効果が宣伝文句だったらしい。

 

自分はスーツやコート、頻繁に洗えないアウターに焼肉やタバコのにおいがつくから使うものだと、最初はそんな認識だったかな。もう二十年も経つようなことなのか・・・。

 

ファブる、という言葉ができたのは2004年だという。

市民権を得て、アレをシュッと吹く行動様式に愛称がついてるわけだ。

 

ファブる、という言葉が定着する以前に、なにか匂いが気になるものに霧吹き、スプレーを吹くという行動様式があったっけ?

あまり記憶にない。吹き付けるなら香水か、外に干して風にあてとくとか、

タンスにゴンとか、樟脳やポプリとかを一緒にしまっとくとか、そんなもんじゃなかったかなあ。

住宅の気密性があがって匂いがこもるようになったとか、そんな背景もあるかもしれない。

 

で、最近のCMでは、

車に置いとくファブリーズとか、

靴箱にファブリーズとか、

布団をファブるとか、

お部屋の空気をファブるとか、

園児の帽子や制服をファブるとか、

絨毯やソファを夜ファブしとくとか、

 

なんっっっでもファブらせようと、新しい使い方を提案してくる。

 

商品よりも、むしろ行動様式をコマーシャルしてくる。

 

わかるかな~この怖さ。自分はこういうのが一番嫌いだ。

それを是か非か考えさせずに、刷り込んでくるような行為が一番タチが悪いと思う。

知らず知らずのうちに、行動を操作されてるというか。

自ら意図したかのようにある行動を起こすよう仕向けられている。仕組まれているっていうか。

識閾下にあるパターンを投射されてるうすら寒さというか、つまり催眠暗示だこれもう。

 

自分は、考えるってことを愛してるからな。

なんでも一度は自分の頭で考えて、受け入れるかどうか自分の意志で決めたい。

それでこそ結果を引き受ける覚悟、責任をもてるというものだ。

 

行動様式、消費行動そのものを変えようと訴えてくるCMというのは、なんなんだろうね・・・。

行動様式、というものはそもそもそう簡単に変わるもんでもない。

人は昨日と同じに今日も明日も生活しようとするものだ。縄張りのなかを習慣通りに動く。

そこで単純接触効果だ。何度も何度も同じメッセージを送る。

飽きないように手を変え品を変え、エンタメにして訴えてくる。

 

二十年と何百億だかの宣伝費、気の遠くなるコストをかけて、

P&G社は ファブる という行動様式を一般に定着させたわけだ。

 

 

なんか匂うかもな~、と気になれば、ファブればいいじゃん。

 

という思考パターンが定着した。なにかに向けてシュッとやることになんの疑問も抵抗もない。きれいになる気がする。

 

しかし、本当にそんな効果あるのかな~。

次亜塩素酸ナトリウムならまだしもさぁ…。

ファブリーズの中の液体の原価は十円以下だと思う。

相当に利益率が良くなきゃ、あんな凝ったCMを何本も撮ってオンエアするお金が出てくるわきゃない。原価厨じゃないけど、

ファブリーズの半分は宣伝費で出来てます、てなもんだw

半分というか、ファブリーズでもバファリンでもアタックでもボールドでもドモホルンリンクルでも、なんでもだ。

CMしてる商品を買うってのは、もうほぼCMの視聴代を払ってるに等しいとも思う。

情報を買って、実態のないイメージを消費してるに等しいと思う。

 

いや、除菌効果も消臭効果もあるのかも知れんけど。

あっ、ていうかどれも使ったことないから効果のあるなしとかわかんないや・・・。

まぁどんくらい菌が減ってるかなんていう、データや実証のフィールドでは個人が企業に敵うわけもない。調べようなんて気もさらさらない。

手応えをもって語れるのは、自らの内なるインスピだけだ。

自分としては、

空気をファブるとかそれなんてセルフガス室陰謀論なのマジ怖い戦慄する。

園児とか体が未熟なもの、希望を担うものから狙い撃ちとかマジ怖い戦慄する。

と思うけどあくまで個人的感想ですw

 

よくわからん液体を噴霧して吸い込む、布に付着して肌に触れさす。

ファブるという行動、ファブればキレイという思考、

あれもこれもファブりまくる習慣が、どんな運命になって収束し、顕現するか。

想像したこともないだろうが、想像してみたらいいと思う。

それであらためて、買うか使うか、自分の意志で決めれば、

なにが起きてもP&G社を訴訟したり署名や被害者の会をつくらなくていい。かもしれない。

「お前達がそうしろって言ったんだ!お前達のせいだ!」そんな苦しい思いを持たなくて済むかもしれない。

つーかすでに訴訟対策に、CMでは言葉選びは相当考えてあるよな。

 

いや、効果があるとかないとかはいいんだ、主題じゃない、置いておこう。

ファブるというエトスをダウンロードした経緯について見直すことで、

ファブる以外の、色んな行動様式についてもそれを自分がいつどうやって吸収し、繰り返しているのか、見直してみるきっかけにするのもいいかなと思ったんだ。

それは洗脳の解除の第一歩、自由意志の行使への道の第一歩だ。

 

エトス、行動様式、思考パターン。

信条や信仰や、良識常識、当たり前。

 

そういうのって、自分の脳がPCだとして、

どこまでがうっかりダウンロードしちゃって再生してるアプリなのか見直すことができる。

バックグラウンドで自動再生されているアプリが、容量をくって動作がモッサリになってないか、PCやスマホに慣れた人は時々そういう見直しをする。

脳でも同じことができる。いらないアプリを閉じて、アンインストールすることができる。

それで容量、作業スペースが広くなると、ほんとにスッキリした気持ちになる。

 

ファブるのほかにも、色んなゴミアプリ、ガラクタの思考パターンがあるはずだ。

それは多くの場合、育つ過程で親や周囲の人間から刷り込まれたり、コピーしたものだ。

「私は美しくない」「母性に愛されていたい」「敵を倒せば自由になれる」

「死や老いが恐ろしい」「お金がないと不安」「自分を表現するのが苦手」「いい人だと思われたい」

そんな根の深い大物から、日常のささいなジンクスまで無数にあるだろう。

 

まぁ、ルーティン、自動再生は脳の省エネにもなる。

考えないで作業すれば、考える分のカロリーを節約できる。脳は大食いだからな。

便利だからこそそれを獲得したのは間違いわけだが。

アンスコも実は同じくらい大事な機能だってことだ。

吸収して成長するのがだいたい完成する二十代以降は必須スキルだと思うw

 

宮沢賢治注文の多い料理店は、そういう寓意に富んだ、優れた物語だ。

二人の紳士は、料理店にある注文のとおりに身に付けたものを外し酢をかけクリームを塗りこみ、捕食者にとってのご馳走になっていく。

料理店の注文にはなんかちょっと、ん?おかしくね?って思うものもあるのに、

紳士たちは舶来だ本格だ流行だそういうものだといいように解釈して従ってしまう。

舶来とか、流行とか、みんなそうしてるとか、お金を払うからとか。

そういうゴミアプリが、なんか変だな、という直感を掻き消してしまう。

 

あれこれファブったり、飲んだり塗ったり、

CMが注文してくるとおりの消費行動をとってないかな?

CMが、お客に、注文してるの?

広告や商品の紹介してるだけじゃなくて?

それってなんか変だと思っても、CMのエンタメなイメージ、明るく楽しく清潔で誠実で健康で流行な、そんな印象が、直感を掻き消してないかな?

注文の裏の、CMの裏の、姿を見せない店主が捕食者だったらどうすんだw食われるぞww

 

白い猟犬は自らの内に見出せるインスピレーション、戦う力のメタファーでもあり、

すんでのところで助けにきてくれるが、紳士たちの顏は恐怖でくしゃくしゃになったまま、という後遺症のオチがつく。

 

これは身に染みるメタファーだ。

自分も社畜時代、何度も「なんか変だ」と思ってたけど、

そこをグッと堪えるのが大人、それが社会人というもの、というゴミアプリで掻き消し、病んだ。

仕事は辞めたが、多少の後遺症というか跡がある。

運よく見た目や生活に大した支障はないので、勲章か教訓の印と思うようにしてるが、

まあ、やっぱり、できればそんな目にあわないほうがいいよな。

被害が自分だけで済まなかったりしたら、自責の念も大きくなるし。

 

人生ってやつはオートプレイ、脳死プレイでグッドエンドに行けるほどイージーモードかっていうとな。そんなこたーない。

注文の多い料理店は、山の中からとうに全国チェーン店で販路を拡大して、

ブラック企業やテレビや広告やSNSや掲示板、井戸端会議、風潮のなか、

どこででも大繁盛の満員御礼で絶賛いつでも開店中だ。

 

早急に自分のための白い猟犬を見出すことが必要だ。

自分にとってのすこやかさ、自分の体が必要としてるものに耳を澄ませること、

ほんとうの幸い、内なる願い、そういうことを知らないと、

誰の言うとおりにしても、何をしても、虚しさがやまないということになる。

 

まず処理を重くしてるものをリリースする。そうすると大事だったものが見えてくる。

子供の頃、無邪気に夢みてたこと、生まれてきた時もっていた最初の願い。魂の指向。

心の奥にしまい忘れた大切な箱、わたしのなかに見つけられた輝くもの、

そんな感じのものだ。

あ、いつも何度でもの歌詞から千と千尋の記事もうひとつ書けるんだった。

 

 

さて、今日はラピュタだ。ラピュタはまだ見直して解釈してないやつだったから楽しみ。

未来少年コナンの総まとめみたいなとこがあるよな。

レプカムスカとか。ラナとシータとか、失われた古代都市とか良く似てる。

ラピュタは天空を彷徨う城塞だけど、コナンでは都市は水没してるんだっけ。

 

 

 

 

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