ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

シンデレラを解釈する。魔女と魔法少女の聖杯戦争w

 

シンデレラ(吹替版)

 

YouTube公式で期間限定無料。

https://youtu.be/iwjTCdvvGCs

ペローの原形でなく、ディズニーのシンデレラがyoutubeで見れたので書きたくなった。

いや、これが意外と面白かったんだよなあ。

 

眠りの森の美女のような、セルの映像美を期待して眺めはじめたんだけど、

やたらネズミとネコの場面が多くて、なんだよトムとジェリーじゃなくて

プリンセスがドレスをひらひらさせるのが見たいんだけどな~、と思ったが、違った。

 

シンデレラはそういうんじゃないんだな。

姫と王子のラブなロマンスは全然主題じゃない。映像美でもない。

これは継母と娘の魔法バトルものだ。

 

やってることは、Fateシリーズと同じだ、マスターとサーヴァントで挑む聖杯戦争だ。

このシンデレラは現代アニメの系譜を生んだ、ひとつの雛型だったんじゃないかな~。

 

冒頭、シンデレラは小鳥やネズミに歌を聞かせつつ起床、小動物に身支度を手伝わせる。

新入りのネズミを罠から助け、名と服を与える。

 

うん、それはもう魔女だね!

美しい歌という魔法で、小動物を従えている。精神支配系のスキルww

それぞれに名前を与え、眷属にしている。

 

名づけ、というのは実に興味深い。人の持つ最古で最強の魔法のひとつだと思う。

名付け親となり、名を与えたものを係累とする儀式、親子や主従の契約式でもある。

最近だとハリポタや陰陽師や転スラやノラガミなんかでも大事な設定になってる。

漫画ナウシカでも、ナウシカ巨神兵に名をつけると面白いことが起こる。


歌にしても、シャボン玉に映るいくつもの自分の映像がそれぞれ別パートを歌って、一人でハモれるとか、実に魔法的で面白いイメージだ。影分身の術かよ。

 

しかしそんな魔女シンデレラは、彼女以上に強力で老獪な魔女の支配下にある。

継母、トレメイン夫人だ。

もう見るからにディズニーの魔女顔で、

白雪姫の継母のお妃さま、眠りの森の美女のマレフィセントと同じ系統だ。

 

トレメイン夫人も使い魔、護符を従える魔女だ。

ネコのルシファーと二人の娘ね。

 

継母と娘、熟練者と若輩者、ネコとネズミ、魔女と魔法少女

わかりやすい相似の構図だ。大きいものと、小さいもの。

 

この力関係によって、シンデレラはトレメイン夫人に掃除洗濯裁縫と、召使いのようにこき使われる日々になる。

 

ネコとネズミの追いかけっこの場面がやたら尺をとるのは、

つまりネコとネズミというサーヴァント(使い魔)が、

トレメイン夫人とシンデレラ、二人のマスターの代理戦争をしてるってことだからだ。

それFateじゃん。やっぱこの設定自体が、なんか訴える面白さがあるんだろうなあ。

使役、それは人の深層心理に馴染み深い類型だ。

 

そして、ネズミや小鳥では、やはりネコには勝てない。

 

またネコの名前がルシファーとか強そうでなwww堕天使じゃんw

ジャックとガスじゃ敵わなさそうな名前だwww

 

この力関係を逆転させるのに、シンデレラが使うもの、それがブルーノという犬だ。

女性も陰、ネコも陰、ネズミも陰、闇属性ばかりで純粋な力比べになるところに、

 

犬や馬や王、男性性という陽属性。外にあるもの、光属性、有利な属性をぶっこんで勝つ。わかりやすく王道の、燃える展開だ。

 

ディズニーのシンデレラで、特筆すべき改変箇所は、

シンデレラが置いていったガラスの靴、後日その靴に合う足の娘を探す場面で、

王子様がその場にいないことではないだろうか。

ペローの絵本の挿絵とかだと、王子が直接持ち主を探しにきてる印象あるけど、

 

シンデレラとトレメイン夫人の館にガラスの靴を持ってやってくるのは、

いかにもコメディリリーフという顔をした大公と使者だ。王子は来ない。いない。

 

というか、作中でマジで王子様の存在感がない。マジ空気。性格もセリフも何も印象に残らないww

 

多分、眠りの森の美女や白雪姫のように、姫が王子に助けてもらう、女性が男性に選んでもらう、という構図を避けたんだろうね。

 

王子に助けられることなく、男性の介入なく、

シンデレラとネズミと犬 VS トレメイン夫人とネコと娘二人

そういう女と女のガチバトルにすることで、それまでにない新しい物語になってウケたんだろうな~と思った。

男性に守られるだけでない、自立した女性像に憧れる時代の始まりだ。

アナと雪の女王に通じるテーマであり、

セーラームーンプリキュア、アガる衣装に着替えて戦う魔法少女の元祖、プロトタイプって感じもする。

まあ、さすがにまだ直接戦闘、肉弾戦要素はなくて、使い魔による水面下バトルだけど。

 

印象的なのは王子ではなく、最後のトレメイン夫人の「してやられた!」という表情なんだよな。スカッと仕返してやったぜ!というカタルシスがある。

ねえ今どんな気持ちwwとか言って煽りてえww


そんなわけで、意外と楽しめた。

今でも古びないクオリティの高さだった。

 

もうシンデレラの黒いチョーカーは、魔女のテーマカラーという意味の黒にしか見えなくなったよ!

 

あと、あの何の説明もなく出てきて消えるビビディバビディブーのおばさん妖精は、もうあれシンデレラ本人だな。

ブリーチでいう斬魄刀が喋る感じに近いんじゃないか。本人が把握できていない潜在能力が、仮の人格の形をとって働いてくれてる、とか。

そーでもないと唐突すぎて納得できぬ。

 

あと、最近続編上映中のアナと雪の女王では、姉妹愛がテーマなわけだが、

つまりトレメイン夫人やマレフィセントのような、年嵩の魔女の系譜が、エルサになっていってるんだな~と思った。

姉のエルサだけがやたらに強力な魔女で、妹のアナにパートナーがいる構図は、

マレフィセントが魔女で、オーロラに王子がいる構図、

お妃さまが魔女で、白雪姫に王子がいる構図、

そういう伝統に則っている。


マジックアイテムが、氷、鏡、ガラスの靴や棺、と象徴的に類型なのも面白いね。みんな水にイメージが近しいものだ。


で、

継母でも義母でもお局でも実母でも姉でも、

そういう構図になれば意味するところは実は同じだ。

女の価値は若さにある、という軸からすれば、

女の敵は、自分より若い女だ。

若い娘は、年嵩の女の地位を脅かす、

男共はいつも若い女を選ぶ、追い落とされる恐怖がうまれる。

だからマウントする、虐げる、美という力を封じ、排除する。

 

ディズニーに永く受け継がれた、継母と娘の確執の物語が、


今この時代になってやっと、姉妹愛の、和解の物語になったと言えるかもしれないね。


そう解釈すると、いい話だな〜って気がしてくるから不思議w

アナとエルサは、女の価値は若さ、という思い込みが分断してしまうはずの絆を、取り戻している。

それはガラクタの思考パターンのリリース、愛による許しだ。


姉エルサの方が圧倒的に女児に人気というのも逆転的で面白い。

 

アナ雪2も観に行こうかなあ・・・。

 


 

風立ちぬを解釈する3 夢、風、生きて、繰り返すキーワードを読み解く。

風立ちぬ サウンドトラック

 

あー、風立ちぬで書くと辛口になりがちだったけど、ここからは楽しくいけるはず

 

さて、宮崎駿作品の、作中のセリフ回しっていうのはすごく良く考えられて、練られて、選び抜かれた言葉になってると思う。

アニメーションっていうのは、動画、音楽、世界観、ストーリー、キャラ、色んな要素のある総合芸術で、

なにに重きをおくかは監督の作家性によって違う。

宮崎駿は、やっぱりキャラクターのいきいきした動き、演技が図抜けた監督で、

ちょっとした動きのなかに色んな情報がこもってて、

だから言葉の情報量のほうは必要最小限に、そしてできるだけ詩的、暗喩的に、

そういう感じだと思う。

 

作品が後半になるほど暗喩の度合いは増していってて、

風立ちぬでは 風が立つ 生きようと試みなければならない という詩が、

単なる引用にとどまらず全編のなかで響きあうように計算されている。

 

で、そういう印象的な言葉を何回使ってるのか、ざっとカウントしてみたけど、

 

 17回

 10回

きて、生きねば 4回

 

お、おう・・・。

解釈のし甲斐がありそうで嬉しいナア・・・。

 

そういや食堂の女給とカフェの女給が、どっちもキミちゃんと呼ばれてたりするw

「キミちゃんたまごつけて」「キミちゃんお勘定」

 おい君、ねえ君、みたいな呼びかけがそのまま名前になってるんだろう。

 

で、

 

まず、が17回、一番多くて、使い方がトリッキーだ。

くるくると意味が変わっていく。

 

カプローニ「ここは私の夢のはずだが」

少年二郎「僕の夢でもあります」

カプ「私の夢と君の夢がくっついたと言うのかね。面白い、まさに夢に違いない、この世は夢・・・。」

 

カプ「飛行機は美しくも呪われた夢だ」

 

夜、眠っている時に見る夢。

未来において叶えたいビジョンという意味の夢。

人と人が、識閾下で繋がっているという集合的無意識としての夢。

ピラミッドのような文明や科学や権威の象徴、人類単位での希求という意味の夢。

 

そして、この世は夢・・・、とまで言われると、

世は泡沫の夢、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。

夢幻泡影、一切の有為法は夢幻泡影の如く、露の如く雷の如く。

有限は虚、無限は空。

認識し得る有限の世界のすべては、無限、空、0からすれば一瞬の幻影。

そういう深淵っぽい意味ってことになる。

 

少年とカプローニのこの短い会話、頻発する夢という語の使い方が、いわば視聴者へのチュートリアルだ。

ここから、同じ語でも意味する内容が様々であると念頭において見ることになる。

 

ちなみに夢への導入の場面だが、

妹の加代には星が見えて、近眼の二郎には星が見えず、代わりに夢が見える。という構図になっている。

加代には、最初から星=空にあること=魔法があって、

二郎は星を見ようと目を凝らす=空を飛ぶこと・魔法を求める、夢に見る。ということらしい。あああメタファーが渋滞してて書くとややこしいwww

 

 

次にだ。

震災の日の白昼夢、

カプローニ「日本の少年よ、まだ風は吹いているかね」

二郎「はい、大風が吹いています」

 

カプローニのセリフは、まだ飛行機をつくることを夢見ているか。というような意味だが、

二郎の返事では、実際に大風が吹いてて燃え広がる火を消し止めてる状況、カプローニ飛行機も落ちて、風が邪魔するもの、嵐のような苦難や困難の意味になってる。

 

ここで、風が吹いているか、と、夢を持ち続けているか、で、

の意味がオーバーラップになっている。

 

後は、

二郎「ああ、これは飛ぶ、風が立ってる」

とか、制作途中の飛行機が飛ぶと確信を得るのは、設計家のインスピレーションの言葉だったり。

 

菜穂子「風があなたを運んできてくれた時から」

これは愛し合う二人を引き寄せた運命、赤い糸、みたいな意味の風だな。

 

そして風の意味は、生きるともオーバーラップする。

 

誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない

けれど木の葉を震わせて 風は通り過ぎていく

 

風はつまり、目に見えない力のメタファーなんだなー。

宮崎駿が得意なメタファーでもある。

漫画風の谷のナウシカにもこういうのがある。

 

私達の命は風のようなもの、生まれ、響き合い、消えていく・・・。

 

風、風そのものは目に見えない、風が生まれたところを誰も見ることはできない。

木の葉をふるわせ、通りすぎる感触、風がおこした現象、影響を見ることができるだけだ。

生命もそうだ。生命が始まる瞬間を誰も知らない。

着床か、卵割か、心臓の鼓動が始まった時か、最初の一呼吸を吸った時か。

いつが、命が始まったときなのか。

生きている今、心臓の鼓動を確かめることも、呼吸して思考してることも、生命が起こす現象を認識することはできる。

でも、心臓を動かしているちからがどこから来るのか、インスピレーションの源泉はどこにあるのか。それをエビデンス(科学的根拠)で示せる人はいない。

 

命は、風のようなものだ。

・・・というメタファー自体は宮崎駿の専売特許でもない。普遍的なものだ。

 

どうしようもない風に吹かれて生きてる今 それでもまだ 悪くはないよね

 

とか。

 

千の風千の風になって あの大きな空を 吹き渡っています

 

とか。割と歌詞界隈ではあるあるだ。

 

風が立つ 生きようと試みなければならない

 

これもそうだ。風がおこるように、命は始まる。

いつとも知れず、なぜとも知れず、なにかが始まる。

すべてのものが、生まれれば育ち、繁り、実り、枯れ、死ぬ。

そういうサイクルを辿っていく。生成発展し、崩壊回帰する。

花も風も街もみんな同じ、細胞も人体も、銀河も神々も、なにもかもすべてだ。規模の大小はあっても例外はない。

サイクルはとどめることができない。止めてみて、観察したり考えようとすれば、

滞り、淀み、崩れてしまって、宿っていた本質が去ってしまう。

命は生々流転、動的平衡のなかにしかない。

命は始まった瞬間から待ったナシだ。

鼓動も呼吸も生まれてから死ぬまでノンストップだ。

 

で、しかし。

 

ナウシカでは、その命は響き合い、消えていくという、

無常であるがままのうつくしさでいいんだけど。

 

風立ちぬのテーマは、

 

生きようと試みなくては、とか。生きねば。

 

という、ちょっとこう、ねばならない、という義務な感じ?二重否定で意を強める?

苦しいけど、やんなきゃいけないんだ。っていう感じを出してきてるじゃん?

 

なんでそういう苦しさがあるのか。

それを読み解くヒントが、

 

創造的人生の持ち時間は十年 2回

あなた、生きて 2回

 

だ。

 

さも当然のようにカプローニが創造的人生の持ち時間は10年と言うけど。

ちょっとそれって、短か過ぎやしないだろうか?

人生ざっと80年に対して、充実して仕事ができる期間が10年じゃ、

その後のなが~い時間をどーすんの?ってことになる。

 

まあ、宮崎駿自身が70代になって、

自分の人生の最盛期はそんくらいだったと感じてるのかも知れない。

 

たとえば作品の描きこみとかを見ると、

もののけ姫千と千尋ハウルくらいまで超細密美麗が極まっていく傾向なんだけど、

ポニョ、風立ちぬではクレヨン風とか、人物の線が太く素朴なったり、省略表現が多くなる。

まあ一概に、老いたから作画が省エネになったとも言えないと思うが。

描きこみ過ぎも見てて疲れたりするし、そこは好き好きがあると思う。

余白の美とか、間の妙とか、そういう引き算の良さもあるわけで。

 

しかし、菜穂子の父「男は仕事をしてこそのものだ」っていうセリフがあってね。

 

そう、一昔前の男って、そうなんだよね・・・。

 

女はね、人生や身体のフェイズ(位相)が変わることに慣れてる。変化に強い生き物だ。

少女から、月経があって女性になる、結婚して姓が変わる、夫を得て妻になる、子供を産んで母になる。そういうことに、慣れてる。淡々と生活していける。

 

男はね~・・・。

終身雇用制度で、何十年も仕事命!だったおっさんが、

定年で会社からポンと放り出された後、なにしていいかわかんなくて燃え尽きちゃうっていう、そういうやつがある。

宮崎駿世代の、サラリーマンという生き方をした世代の、重大なクライシスだ。

 

菜穂子の、宮崎駿聖母像の、連続 生きて 2回はここにかかっている。

 

1 夢を追って、創造的人生を 生きて。

2 そして、その時間が終わってしまっても、しょんぼりしないで、生きて。

 

と、そういうことではないだろうか。

飛行機作りに携われなくなっても、生きて。

アニメ製作に携われる時間が終わっても、人生は続くから、そこからを生きて。と。

 

引退した後の、やるべき仕事のない人生をそれでも、生きねば、であり、試みなくてはならぬ、であり。

どうしたものか想像もつかない余生を、聖母に励ましてもらいたかったんだろうね~。

 

なんつって引退宣言は撤回したけどなww結局生涯現役路線ww骨の髄まで仕事人間wwww

 

ま、これは、ある世代の男達にこそ沁みるメッセージだ。

今時の若いもんは、氷河期だ派遣だ転職だで、

会社が終の棲家でないことを肌で知っている。

飲み会を断って帰り、プライベートの充実を重視して、

ライフプランを保険の窓口に相談しにいく。

 

もっと前の世代、戦前だと、企業に勤めるというより、

農家とか家の生業がイコール人生だったろうから、定年じゃなくて隠居で、代替わりして体力気力と相談しつつ段階的なフェイドアウトってことになる。

人生の典型も、時代によりけりだ。

 

まあ、なんていうか。

自著伝か、走馬灯的な作品なんだよな。やっぱり。

 

夏休みにはジブリ!というお約束に従って、

当時映画館へ足を運んだお子様はまじでポカーンだったと思うwwww

本当に気の毒でならないwww

 

やっぱり子供にはトトロかラピュタか魔女宅。それで間違いない。

というわけで、次は魔女宅を記事にまとめたい。

 

 

 

inspiration.hateblo.jp

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追記。

二郎の親友、本庄についてだが、どう観察してもまったく書くべきことがなくて驚いた・・・。

あれは親友というか、分身に近い。メイとサツキみたいなシャドーとペルソナ的な関係といえるかも。

二郎が言うべきことを隣で代わりに言ってくれる、代弁者だ。

 

本庄か…、

そういえば、彼がドイツと日本には20年の技術の開きがあると嘆くところがある。

20年の差を5年で埋めても、相手は1年先へ進んでいる。

追いかけるだけでは永遠に追い越せない、アキレスと亀の例え話をする。

 

二郎「小さくてもアキレスになる方法はないのかなぁ」

 

この答えを、アニメーター出身の宮崎駿はよ〜く知っている。

ディズニーのぬるぬる動くアニメの後追いから、

日本はリミテッドアニメーションの手法を発達させていった。

 

手描きのセルを動かすのは、とにかく人件費がかかる。

本家ディズニーもフル3DCGに移行した。

眠れる森の美女みたいな珠玉のセルアニメは、もうロストテクノロジーだ。

 

ソ連雪の女王も、中国のナーザの大暴れ、山水情も、宮崎駿世代に衝撃を与えた手描きアニメ群は後継作品がない。時代に呑まれて、ロストしてしまった。

今見てもほんと素晴らしいけどな…。

いくつかリンク貼っとく。

 

日本のアニメが、独自路線を切り拓いた小さなアキレスなのは疑いようもない。

鶏頭となるとも牛後となるなかれ、だ。

 

日本の手描きアニメも生き残りの道を模索する時代だ。

特に飛行機や車、メカは3Dモデルでも違和感が少ないから真っ先に導入される。

風立ちぬの手描きを貫いた乗り物表現は、後世で貴重なまとめ資料になるかもな…。

 

 


カイを求めて

 


Nezha Conquers the Dragon King 哪吒闹海

 


『眠れる森の美女』ベストシーン

 


逝去的经典:世界经典动画短片Feelings from Mountain and Water山水情Te Wei1988


水墨動畫片 鹿鈴


小蝌蚪找妈妈

なぜ水墨画が動くのか、何度見てもわからない・・・。ロステク惜し過ぎる。

ディザインズを解釈する。ルウはどこ行った?

ディザインズ(5) (アフタヌーンKC)

 

思ったより早く最終巻出た~。

それは嬉しいけど、この結末は・・・?

自分的には消化不良なので、自分のために解釈が必要になった。

書きながら、どうしてこうなったのか考えてみたい。

 

自然界を超越した異形の生物、HA(ヒューマナイズド・アニマル)。それは遺伝子を”設計”された、ヒトと動物とのハイブリッド。HAが備える驚異的な身体能力は、野心を抱く人々の策略によって殺りくの現場へと投入され、その真価を発揮していく。ヒトは何のためにこの異形をデザインしたのか…その背景には、人類の未来へとつながる壮大な計画が横たわっていた! 生物の”感情”という不安定な機能が衝撃的展開を招き、ついに物語は劇的なラストシーンを迎える!

 

そういう内容紹介だったけど、まあそうね。

 

 

遺伝子改変によってつくられたイルカ人間のチーム、

戦隊モノにちなんでるのかメンバーに色の名前がついてる。

リーダーはレッド、女の子はタオ(中国語で桃)、クールなラン(藍、青)子供っぽいキイ(黄)で、

ルウは・・・何だろ?タオ、ラン、のように中国語ならリュイで、緑か、

巻毛で白人風なので、フランス語でLa Roux ラ・ルー赤毛か朽葉色?

ルウだけなんかろくに喋らないし謎めいた感じになってる。

海獣の子供のルカのように複数の意味があるのかもしれん。

 

ショーンには「一頭の暴走から、群れごと座礁してしまった」と言われるけど。まさにそう、

 

イルカ人間達には、エコーロケーション、音波の送受信による高度な空間把握や、感覚の共有という能力がある。

もうテレパシーといっても過言ではない感じの能力、異能だ。

 

彼らは五人分の情報処理を重ね合わせて、一個として行動することができる。

情報の並列処理、意識のオンラインネットワーク、五人分のシビュラだ。

しかし、彼らにはエゴが、自我が、揺れ動く感情がある。

それが最も幼く、激しかったのがキイだ。

 

キイは、傷つけられれば激高し、人間の残酷で愚かな所業を見て絶望する、憎む。

 

それ自体はまあ、ごく当たり前とも言える感情の動きなんだけど。

問題は、チームの全員でその激高や絶望、憎しみも共有し、増幅し、どうしようもなく突き動かされてしまうことだ。

五人で増幅したシグナルが逆流すると、個々のキャパシティでは抗えない質と量になるっていうか。

スパコンから逆流した大容量のデータを、個人のPCのマシンパワーでは処理できないっていうか。

狂ったオーケストラの不協和音が、参加した楽器すべての調律を汚染してしまう。

 

 

キイが今際の際に残した強力な思念は、レッド、タオ、ラン、ルウの全員の精神を汚染し、

イルカ人間チームはモンサnサンモント社の組織から造反、離脱する。

人間の愚かしさを粛清すべく、「殺す必要のある1000人」のリストをつくり、実行しようとする。そこら辺りまでが四巻までの内容だった。

 

まあ、どっかで聞いた話つーか、思春期あたりに誰もが一度は考えるやつだ。

弱い人を、無辜の民を、食い物にしてのさばってる悪徳商人や権力者を一掃すれば、

もっと世の中良くなるのにってね。

 

これをやった作品で白眉なのは、デスノートだなw

犯罪者を死神のノートで裁き、

「僕の認めた真面目で心の優しい人間だけの世界をつくる」

「そして僕は新世界の神となる」ってやつだwww

 

夜神月にはデスノートがあり、イルカ人間チームには高い戦闘能力がある。

簡単に人を殺せる力で、世界を良くしようと試みる。アクメツとかそんな漫画もあったな。

だがこれは、どうシミュレートしてもうまくいかない命題であるらしい。

 

イルカ人間達も、夜神月と同じ結末へ至る。破滅、全滅、返り討ちだ。

 

そして、遺伝子改変種を畜産や兵器に利用するショーンやオクダは生き残る。

 

イルカたちはダークヒーローにならず、

人間達の残酷と愚かしさは今日も続き、

巨大バイオ産業会社の悪事を暴こうとしたジャーナリストは消され、

ショーンなんか最初から言ってた通り、混乱に乗じてライバルを蹴落とし、漁夫の利を得る。

 

うん、消化不良だ。

っていうか、どうも人間の倫理、物語の定型、お約束をあてはめてディザインズを読もうとしてはいけないらしい。

勧善懲悪とかではなく、ショーンもオクダも倒されるべき悪役ではないらしい。

 

人間のルールでなく、もっと大きな自然界のスケールを感じるための作品らしい。

人間のディザインズ・陰謀は、もっと大いなるもののディザインズ・策略に内包された部分に過ぎない、というか。

 

解釈していこう。

まず、ちょっと気になったのは、ルウの生死だ。描写がない。

イルカチームの死体は4つで、2つは部分だけ、ということだったが。

ルウが、レッドの遺体をもって逃げたってことはないかな?

開かずの間、消音壁と重低音に満ちた部屋で、恐らく彼らはエコーロケーションの能力、受信感度の良さを逆手にとられて、ゾウのHAの環世界のビジョンを見てしまった。

キイも影響を受けたみたいだけど、ゾウの意識はヒトやイルカの意識より高スペック、処理が大きいってことかな~。

イルカは処理能力を越えた大容量の信号をめいっぱい受信してフリーズしてしまった。

が、あの神話の怪物のようなイメージは、あくまでイメージであって、

巨大な怪物が彼らを頭からバリバリ食べたってことはない、と思う。

 

貝のHAアーワンが最期に示した可能性、HA(ヒューマナイズドアニマル)と人間の、交配。

交雑種、ハイブリッドができるんじゃないかって可能性を託されたのが、ルウなのかと思う。

メンバーの一員である緑のリュイから、新しい指針のリーダー、赤、ラ・ルーへと転身したのかも。

オクダのHAよりも、ビクトリアのイルカの方が、ヒト由来の遺伝子を使ってるという話だったし、貝人間と人間の交配より、イルカ人間と人間の交配のほうが、成功率はありそうだ。イルカも哺乳類だし。

 

むか~し、そういうラノベがあったな。橋本紡猫目狩りだ。

遺伝子改変種、人造の種も、生まれたからには一個の意志ある生命であり。

人間の目をかいくぐって、したたかに、種として独自の生存戦略を展開する。

人に交わり、遺伝子を残そうとする。大河の一滴のようなその変化も、バタフライエフェクトのようにいつか大きなうねりになっていく・・・かも知れない。みたいなテーマが心に残ってる。絶版ぽいのでリクエストがあればあらすじを詳しくする。

 

結局、悪を成敗するとか、良くない可能性を摘んで、善いものだけにする。というのは優生学的っていうか、人間的なモノの考え方であって、長い目で見ると先細りになるんだよね。

 

自然というのは、善も悪もなくありとあらゆる可能性を試行して、環境に適したものが残る、という総当たり方式なんだよなあ。

混乱とおびただしい淘汰の中から、一縷の正解を紡いでいくっていうか。

魔女ミラも言ってたね「生物の進化っていうのは、こんな死体の海を泳ぎきるレースみたいなものかもね」って。

 

ビクトリアとイルカチームも、混乱を起こして、結果として、ある可能性の種子を世界へ撒いたのかもしれない。意図したわけじゃないけど、結果そうなっているというか。

 

というわけで、ルウ君には頑張って女の子をナンパして欲しい。ちょっとデコが大きいけど、イケメンだしイケるイケる!

 

 

ところでここまで書いたところで、この物語の主人公っぽいのは、イルカじゃないよねww

カエルちゃんだよねwww

 

そもそもカエル娘だが、呼び名が多過ぎる。

ペグ(義足)、カエルの王女、クーベルチュール、おじょうさま、センセイ、僕の妹。

 

みんな彼女を色んなふうに呼ぶけど、どれが彼女のホントの名前なのか。

っていうか、どれも彼女の本質をあらわす名でなく、あえてたくさん仮の名がある、

キャラとの関係性ごとに名がある、皆自分が見たいように彼女を見てる、自分の価値観を彼女に投影してるって感じだ。

 

彼女は、受動的というか、物語を動かしていないキャラだ。だいたいショーン、会社の命令に従っている。

自主的に起こした行動としては、靴を拾うとか、シャワーやチョコレートが好きとか、靴下の繕い方や料理を習うとか、自分の足に合う靴を作ろうとする、とかだ。人畜無害で女子力が高いw

 

特に、誰の指示でもなく、私室・プライベートで、靴の見本品を取り寄せ構造を観察し、道具を使って型紙をおこすところから、自分に合う靴を自分でつくる。

というのはめっちゃ高度に知的で好奇心に富んだ、人間的な行動だ。

 

いくら彼女はただの蛙だ、遺伝子からすると人間ではない、と言っても、

その行動は、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)という定義からするとすごく人間なんだよなぁ~。それはある時代、一世を風靡した定義だ。

 

人間の定義は、考え詰めるほどに曖昧だ。時代によって変わる。

今は遺伝子という見方が最先端で流行りだけど、それもいずれ違うものへ変わっていくと思うべきだろう。

 

あ、カエル娘の自主的、積極的な行動といえば、

幼馴染の豹娘ベイヴを助けにいったのはあるか。

 

しかし、ベイヴを助けたのは同じ豹娘のアンで、アンはその時に死に、

一度退場したベイヴは再登場してアンの仇を討つけど、

 

ベイヴとカエル娘は、感動の再会をした様子がないのはなんなんだ?スルーしてる。

 

カエル娘のまわりに死者が集まってるので、ベイヴはそれが嫌なのかもな。

ベイヴのまわりにはメイドとか家猫とか、新顔の豹娘とかが描かれる。

 

カエル、沼、水辺の生物というのは、グリムでもそうだけど、黄泉の使者的だ。

ラストバトルの舞台、窓のない消音壁の部屋、恐竜の化石、死んだものを飾った部屋でスプリンクラーを使う。

閉じた部屋を水で満たす、という発想も、

かなりイメージ的に地下、黄泉、冥府、幽世、胎内、水の世界、異界的ではある。

 

カエル娘が死者と交流し、彼らと同居するのは、図像的、象徴的には納得がいく。

 

あと、

カエル娘は、残酷な実験台にされたアーワンの痛みを感じつつ、

アーワンを助けることはない。

が、メイドには共感を示し、メイドのトラウマに配慮して銃から遠ざける。

 

ベイヴとメイドは助け、アーワンは見殺し、ランは仕留める。うーん。

 

自分の裁量の及ぶ範囲において、他者に思いやりを示し、後は仕事として割り切る?

会社には逆らわない、自己保存が最優先ってことか。

 

イルカチームが感度の高さが災いしたのに対して、

カエル娘はアーワンの痛みやキイの憎しみを、強い信号を、ただ受け流すことを心得ている、のかな。

 

氾濫する情報の海から、必要なものを取捨選択することができる。

コツのようなものを掴んだ、と言われてた。

 

確かに、高度な共感能力を習得するなら、そういうセーフティは必須だな~。

このストレスフルな社会で、無防備に感受性豊かでは命取りになる。

メンタルトレースとメンタルケアは、セットであるべき能力だ。

 

 

あ、今気になって見返したら、ラストでカエル娘の私室にいるのは靴の持ち主とアンとアーワンだけになってるね。

 

象(キイの思念)がいなくなってるし、ランやタオが増えたりしてない。

はて?成仏したか、まとめてルウについていったかな・・・?

 

なんかこう、カエル娘は前作海獣の子供で言うと海君のポジションに近い。

積極的に動くことをせず、何を考えているかわからず。正体を認識できない。

異なる世界から、こちらをただ見ているみたいな存在だ。

 

ただ、海君よりも好きなものが多いというか。海君はアイス好きだけど。

チョコレートが好きで、更に靴、陸を歩くためのものを作ろうというのは、人の世界への積極的なアプローチと言えそうではある。

海君は去ってしまったけど、カエル娘は人間の世界に適応し、ここで生き延びていく意思を示してるっぽいかな。

人魚姫、怪獣は海へ帰るけど、両生類は陸でも生きられる、そういうことだろうか。

 

 

 

で、後はショーンとオクダか。

五十嵐大介作品に良く出てくる、そそのかす者と、直感に欠けた実行者のペア。

ジプシー老婆とニコラ、千足とひなた、アングラードとジム、みたいなペアだ。

 

ショーンはおしゃべりなのでまあ、見たままわかりやすいが、

ワケワカンネーのはオクダだ。サイコさん過ぎるwww

 

このペアのどちらもが破滅しなかったのも初か、そういえば。

 

ショーンが生き延びたのはなんでかなぁ。

ああ、アングと違って、人の忠告、魔女の忠告を聞き入れてるかもな。

 

ミリアム伯母「あなたは賢いけど、状況をコントロールできると過信したら足元をすくわれるわよ、気を付けなさい。」

これがショーンを救ったか。

アングもデデともっと仲良くしときゃよかったのかもね~。

 

もたついた部分を壊しながら、混乱した状況の中に活路を見出していく、というのもそこだけ見れば生物の生存戦略としては正しいしな…。人倫的にはアウトだが。

 

ジプシーの老婆は未来視に驕ったおせっかい、

千足は鬼子母神だ。我が子の為に他人の子を食う。

アングラードはピーピングトムだな。見たがり。

 

ショーンは、人倫にケンカをふっかけながら、自分と企業の生き残りを模索する。

千足に似てるな。そういえば千足も破滅してない。

より良く生き残るために他者を犠牲にすることは、五十嵐大介の世界観では肯定される。

それは多分、自然界でもそうってことだ。

人倫より上位に、自然の摂理がある。

第六層、法には体系があって、上位の法は下位の方を内包し凌駕する。

これはシータヒーリング本に詳しい世界観だけど。

 

人倫に逆らっても、自然の摂理に則るなら、破滅には至らない、と。

 それは、命題としては真だな・・・。

 

 

で、オクダ。

ニコラひなたジムの前例からすると、なにかを実行する高い能力があるんだけど、心が円満な状態でなくて、真実を直感する力に欠けていて、そそのかされてどうにかなってしまう。みたいな人ってことになる。

 

が、オクダはどうだろう。ショーンにそそのかされてるのかな?

オクダは「頼みごとを断れない」という性質を持つらしい。

多分、なにかを否定するっていうのが不得意なんだろうな~と思う。

そういう精神構造であればこそ、倫理に囚われず、思うままに生命をデザインする能力を発揮できる。

すべてイエスで、ノーがないというのは、葛藤を生まないシステムとしてありそう。

余計な入力を絞る必要がありそうだが。

葛藤、プログラムの衝突がなければ、PC、脳の処理は軽くなる。その分なんでもサクサク考えることができる。

 

・・・、

残酷な実験台にされたアーワンだが、彼が「痛い、どうして」でなく、「オクダパパ、やめて助けて」と叫んでいればな、と思う。

おそらくオクダはそう頼まれれば、そうしようとしただろう。

移植したカエルの皮膚でアーワンの意思は伝わってるし。

博物館の整理をメイドとやりたい、という希望は、オクダは一応請け負ってくれたわけで。

 

しかし、オクダは言語化された依頼であれば聞きいれても、

アーワンの痛みにはまったく共感しない。できたらあんなヒドイ実験はしないわけで。

その辺がサイコだ。言葉は通じても気持ちが通じない。

 

ショーンはそんなオクダを悪用したい有象無象からガードしているという。

ま、独占してると同じ意味だが。

 

うーん。オクダね~。

 

ミリアムによれば、神的ななにかは自分の姿を探していて、あらゆる生命を生み出した。試行錯誤の結実として人間、そしてオクダを生んだ。彼は神に相応しい姿を設計できる。とのことだが。

 

いやー・・・。どうだろう。

おおむね同意してもいいが、

神を設計する、創造神を見る、深淵、無限、0、世界の秘密に触れるのであれば、

それは万人に等しく開かれてはいるんだけど、オクダにはひとつ致命的な欠格がある。

 

自分の過去を否定していることだ。否定は不得意なはずなのにw

ミセスビッグ、豚から生まれたという記憶を抑圧して、両親と妹がいたという思い込みで入念に上書きしている。

これは相当ネックになると思う。

 

ハウルの動く城の話から例えを引用するけど、

深層心理、集合的無意識よりさらに深くへ行こうというなら、

それはドラゴン、怪物のいる道なんだよなあ。

見たくないものを見ないまま、そこを通ろうというのはよろしくない。

自分が生み出した恐怖に追いつかれ、喰われると思う。

 

そもそも心の底へ、下へ下へと降りていって、底を抜くみたいなやり方は、あまりオススメの道ではない。抑圧してることのひとつやふたつは誰にでもあるからなぁ。

 

ま、そのへんは瞑想法の話になって怪しくなるので他記事に譲るが。

 

思い込みをリリースしなければ、オクダはそのうち自滅しそう。殺されるまでもない。

抑圧はいずれ噴き出す。強く抑えるほど反作用が大きくなる、そんなもんだ。

 

目やら脳やら気軽に取りたがるのは、自分の肉体、痛みに無頓着なサイコパス表現でもあるけど、

カエルになりたい、何かに、誰かになりたいというなら、それはありのままの自己の否定でもある。

 

オクダもイルカと同じに、情報入力の過多を受け流すすべを知らないだろうし?

 

・・・、するってーと、ほんとにオクダは手術室の前で「今日は脳をとっちゃおうか」と言ったとおり、

あのまま脳を摘出して廃人化、自滅、破滅っていう可能性もある気がしてきたな。まじか。

イルカとカエルの奮闘はなんだったんだよwww

「脳なんかなくても思考できるって証明しようよ」いやいやいや、植物の神経系というならまだしも、活動中の動物から脳をとっていいわけないだろ。

オクダの思いつきの暴挙をとめられそうな執事のヴァンダムは・・・、その場にいないぞ。あ~・・・

 

うん、ようやく察した。そういうオチか。

 

遅かれ早かれそういうことだな。

 

よし、ディザインズ、自分的にはだいぶ噛み砕けたような気がしてきた。

結構面白かった気がしてきた。序盤の豹娘達のホラー顔が一番良かったな。怖くて。

 

 

ああ、ナラ・プラント、宇宙空間で遺伝子改変植物の生態系が発達してることは多分ヘーキヘーキだwww

 

周回軌道上にペトラ・ゲニタリクスとか、永久凍土の中にSARUがあるのと変わらない。

意外と世界の危機ってのは、そこらへんにゴロゴロとあるもんだ。

 

地球が現状の存続を望むなら、その都度、使命を帯びた誰かが遣わされるだろう。

 

そんなもんだw 

 

杞憂は必要ない、悪と戦う必要もない。各々、自らの至福を追求すべし。

 

微笑む悪魔からも闇の権力からも隠れ逃げおおせた、いくつかの可能性達が持っていた心は、それだ。

 

 

 

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 グリムと死後の世界について興味深いサイト。

M山的グリム童話考察サイト

https://grimm.genzosky.com

紹介してくれたミュトスさんもありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

追記、脳がなくてもモノを考えられる、というSFがあったのを思い出した。

星野之宣レインマンだ。これはこれでとても興味深いアイデアがある。

 

風立ちぬを解釈する2 男性性・父性と向き合う。汽車と船。

風立ちぬ (ロマンアルバム)

 

さて、風立ちぬに登場する父性の象徴や表現に注目して見ていってみよう。

 

興味深いけど、葛藤に次ぐ葛藤、そんな感じで見てるほうもまぁまぁストレスなんだよな~。

それでこの作品は見ててあまり心地よくないし、売れないのも残念でもないし当然っていうか、 

自伝か走馬灯として、宮崎駿監督の独白を聞く気持ちで見るといいんだろうな。

男性性・父性の問題を抱える人には共感があるだろうし、それはとても普遍的なテーマだ。

 

まず、冒頭は少年二郎の夢からだ。

羽のついた飛行機にのって夜明けの空を飛ぶ。

川にかかった橋をくぐるのは、紅の豚でもあったイメージだ。

地上の飛行から、空という世界に場面転換する感じかな。空も別世界、異界ってことだ。

 

で、はるか上空に大きな飛行機械が現われる。

っていうか、あれ飛行してるのかというと微妙だな。

全容が見えなくて、翼もなくて、雲から生えてるような恰好だ。

画面を90度回転すると、モノリスオベリスク、そびえたつ塔のようになる。

男性器的な象徴だ。男性性、父性、父権、そういうものだ。

 

ダメ押しにマルタ十字のマークまでついてる。

マルセイユ版タロットの五番・教皇だ。共同体のまとめ役、教えや規律を授けるもの、教皇と二人の信者、二人の生徒、父と兄弟、学校、寺院、軍事集団・・・。

ポニョの骨格にタロットを使った余韻だろうね。

 

男性象徴的な飛行機械から、砲弾を落とされて二郎は墜落する。

 

有無を言わさない高圧的な父親像を前に、畏縮してしまう少年、そんなメタファーに思える。

 

で、夢から覚めるわけだが。少年時代の描写、っていうか作中で、

 

実父と、ついでに長兄がまったく登場しない不自然さ、違和感に諸兄はお気づきだろうか。

 

母と、妹。ついでに女中と赤ん坊しか描かれないんだぜwww

 

家に、年上の男性がいないんだよな。

家の外では、上級生を投げ飛ばす正義漢なんだが。

 

実父は、別に死んでるわけでもない。

汽船の上で加代が医者になりたいと言った時、二郎は「僕から父に話してあげよう」と言い、

菜穂子と結婚したとき、妹の加代が訪ねてくるけど「父と母の名代で来ました」と言う。

 

妹の加代が医者になりたいというのは、二郎が空を飛びたいというのと対になっているんだろうな。

男性が飛ぶという魔法を志し、女性が医術、科学のわざを志している。

 

ちなみに、そうは言ったものの二郎が実父に、妹の進路についてモノ申す場面はない。あるわけないww

 

そして実父の代わりに、父権存在として、菜穂子の父、黒川と服部が登場する。

 

黒川と服部、特に服部課長は、今までならドーラ、エボシ、湯バーバなどの強い女性に割り当てられていた役を演じている。

あえて類似を探すなら、漫画ナウシカの道化とヴ王のペアに近いかな。

黒川の頭身の低さや、モッサモッサと動く二股の髪はコミカルで道化っぽい。

 

服部課長は、二郎に「五年目ならいいだろう、君がやりたまえ」で設計主任に任命。

「しばらく身を隠せ、その間に上から手をまわす」そういう政治が仕事だ。

「会社は君を守る、君が役に立つ人間である間はな。」役を果たすことを期待しつつ、利害を天秤にかける。

 

これはかなり典型的かつ理想的な父性存在、デキる上司だ。

彼の仕事、父性の役割は、指針を示し、組織を導き、共同体を運営することだ。

構成員に役割を与え、監督し、結果を評価する。

 

しかし、服部課長と二郎、という関係性に注目して見ると、これもなかなか・・・。

 

二郎は二回か三回ほど、服部課長を無視するというか、何かに熱中してて気が付かない。

黒川が「おい二郎」と服部課長の質問に答えるよう促すのを、

服部課長が手で制する、仕事に夢中な若者にとても鷹揚、寛大、苦しゅうない、そんな感じなんだが。

 

二郎から、なにかはっきりと服部へ意思表示したのは設計を「やらせていただきます」

の一言だけだ。

 

あとは会話じゃなくて、二郎の独白っぽかったり、黒川と話している。

 

・・・・うーん。

 

「やらせていただきます」は、頑張って父性に対峙してる。

でも、なんていうか父親とフツーに雑談とか、できないんだろうね・・・。

父親と和気藹々と会話、対話とか想像もできないっていうか。

儒教的、封建的な家庭像っぽい。武家かよっていう。

服部は父権としては鷹揚で物腰が柔らかい人物像で、話しやすそうに見えるけどな〜。

服部と二郎では、ろくに目も合わないんだよなあ。

 

一方で黒川はよく喋るキャラだ。黒川と服部がペアのとき、彼は部下でもあるけど女房役だ。

父親と話すのに、母親を経由する。それくらいはまあ、未だにあるあるな話かとは思うww

 

 

で、菜穂子の父、義父との関係性に注目してみるとだ。

 

好きな女の子の父親に「娘さんを僕に下さい」というのは、

大概の男性にとって、大きな試練といえる。

 

勇者マリオが、魔王クッパを倒して、ピーチ姫を奪還する。そういう心理的な類型だ。

義父というのは、姫との間に立ちはだかる魔王のようなものだw

 

で、二郎は「お嬢さんとのお付き合いを認めてください」と義父に言う。父性に対峙する。

 

義父は、「いや、しかし・・・」とか難色っぽい顔をする。

 

そこで、菜穂子が階段の上から「その話、お受けします。」ときてしまう。

 

それがバッドエンドへの分岐点だったように思う。

    「そのお話、お受けします。」

 →「お父様、私からもお願いします。」

であれば、ハッピーエンドへ辿り着けたはずだ。

 

マリオとクッパのラスボス戦開始!デデーン!とゴングが鳴ったところで、

上からピーチ姫が出てきて「マリオありがとう!」っつって、クッパがポカーンとしてる間にピーチ姫がマリオを連れてキノコ王国に帰っちゃうってくらい、

締まらない話なんだと言えばわかるだろうか?

そこは男どうし心ゆくまで戦ってみないといけなかったんだな。

 

姫が勇者に力添えするだけなら問題なかった。

が、ジブリのヒロインは争いや対立自体を融和させてしまう存在として、繰り返し描かれてきたからなぁ…。

それがここで、初めて裏目に出たように思う。

 

 

 

まぁ、一事が万事、そんな調子だ。

 

描くべきことを、どうしても描けず、場面が切り替わって迂遠しながら物語が進む。宮崎駿もわかってるはずだ。

父性と対峙し、戦う。

そして勝ち敗けでなく、精神的に越えていかなくてはいけない。

なのに、それがどうしても出来ない。

父性存在より高みへ飛べない。自画像である飛行機が墜落していく。累々と飛行機の残骸が重なる。

 

しかるべき段階を経てないから、結婚の描写が不自然になっていく。

 

二郎は、下宿から黒川家の離れへと住まいを移す。

 

菜穂子喀血の知らせを聞いて、名古屋から東京へ駆けつける。

 

菜穂子の家に着き、庭から、離れの菜穂子の部屋へ直行する。

 

・・・、いや、なんで玄関を通らないのか、という話だ。

一刻も早く菜穂子に会いたかった、という一応の理由はあるけどもね?

二郎「今度は明るいうちに玄関から来るよ」その機会は描かれない、

菜穂子「お庭からの方が嬉しい」ええ・・・?そこはフツーに「待ってるわ」でよくない?

 

玄関は、家の顔だ。その家、家系、共同体の門だ。

そこを通らないのは、当主に正式に招待されない者、招かれざる者、

間男かと言われても仕方ないってくらいだよ。象徴から解釈するとね。

 

 で、菜穂子が高原病院を抜け出して、二郎のところへ来る。

 

黒川家の離れで結婚式を挙げ、そのまま暮らす。

 

うん、いや。愛し合う二人に水を差したくはないんだけど。

 

黒川夫人は快諾してくれたけど、人ん家の離れで新生活スタートして、それで新しい家庭の船出的な絵面かっていうとちょっとね・・・。玄関や表札、台所や囲炉裏とか、仏壇や神棚とか、家の中心になる象徴も何もないしなぁ。

一国一城の主って言葉があるけど、その意味で二郎はひとつの家庭の主人とは言えない。黒川家の居候だ。

 

二郎も、宮崎駿も、仕事は天才のそれなんだけどね・・・。

家庭における夫、父としてはね・・・、ってことなんだろう。

 

っていうか、婚姻って、家と家との繋がりの構築でもあるからね。

当事者の男女二人だけで成立しないわけじゃないけど、

二郎の父母兄妹、菜穂子の父、関係性の良好な家族が健在なのに、

結婚式は仲人の黒川夫妻のみ、参列者ナシというのは、

やはり、結婚という儀式、その意味合いからすると不自然で不完全だと思う。

 

胎である泉から新たに生まれ、祝福されたはずの一対の男女が、

お家があって子供がいて、みたいなひとつの家庭像に成るように物語が進まないのは、

菜穂子の病のせいだけではない。二郎が父親を精神的に越えておらず、成人、自立に至っていないせいでもある。

 

ってことになるんだよな~。

 

これ相当フラストレーション溜まると思う。作った本人からしてだ。

 

ある葛藤が、昇華に至らず、健気なヒロインがその歪のツケに、非業を背負わされている。

 

宮崎駿は、自分の造形したキャラを愛してる人だ。愛着、執着があるとも言う。

カーチスは王様に、坊はマルクルに、サリマンはひまわりの老婦人に。

不遇なキャラには作品をまたいで救済の描写がある。

 

二郎の声優の庵野秀明監督なんかはまるで逆で、キャラを突き放してる。

視聴者のトラウマになるようなエグい目に遭わせてヘーキな人なんだけどw

 

高畑勲も節子とかかぐや姫とか非業のヒロインを描きたがる、純文学的ていうか、滅びの美学みたいな感性があるけども。

 

 

宮崎駿はなー…。菜穂子は、宮崎駿作品中でダントツ不遇ヒロインだ。

結核に冒され、死期を悟って結婚し、弱りきる前に手紙を残して去る。

しかし、そういう「きれいなところだけ見てもらったのね」というのは、

古典的なサナトリウム文学のベタなパターンそのまんまのやつであって。

作家の心がこもってない、お約束の、紋切型の、借り物のイメージなんじゃないか?と感じる。

ぶっちゃけ、そういうの宮崎駿らしくない。

そこは原作通りだからといえばそうかもしれないし、

あの時代を懐古する表現ではあるかもしれないが。

 

まあ、もしあの性格で病じゃなかったら、どんどん前に出て活躍して、

二郎より目立っちゃってたとは思うけども。

 

二郎をああいうぼーっとした主人公にした以上、それしかなかったとはいえ。

 

宮崎駿が菜穂子をあのままで終わらせて平気なわけないんじゃないかな~。

 

無理をおして次作をつくると言うのもむべなるかな。で、

「きみたちはどう生きるか」には、賭けてもいいけど、

菜穂子の救済の描写があると思うww

 

誰かの病が快癒するとか、元気いっぱいで活躍するヒロインとか、

夫唱婦随で愛する人と添い遂げて子供をもつ、今度こそ理想的で典型的な家庭像を描くとか。

 

 

風立ちぬ、の作品のなかに、父性と対峙、対決、そして内面へ向かって自立、というステップがあったか、と言われると、微妙だ。

ハウルの動く城で母性を越える時は素晴らしく完璧だったんだけどなwwあれれーww

しかし風立ちぬまで見ると、ハウルの自立の仕方は、どっちかっていうと父性の越え方だった気もする。

校長で権力者のサリマンは、母性というより父権的なわけで。

 

実父と息子、という関係性はついに描けなかったけど

 服部課長のような人物を描けたこと、

対峙、内省、自立のステップ自体は知っていること、

 自分のなかの葛藤に向き合ったこと、

 

ハウルが「僕は臆病なんだ、怖くて怖くてたまらない」と告白するけど、

心の問題というのは、自覚できさえすれば、向き合う機会がやってくるようになってる。

目を逸らしていた痛みに気が付くことこそ、最も重要ではある。

 

その意味では、風立ちぬは、昇華まで行かずとも、葛藤の認知ではあるんだよな。

 

飛行機が落ちる場面も多いけど、落ちたところには汽車が走ってきている。

汽車だけじゃない、小舟、自動車、路面電車、一銭蒸気、寝台列車、帆船、航空母艦、バス、実にたくさん色んな乗り物が出てくる。

 

一足飛びに飛翔するのが難しくても、地を這って、決して歩みを止めない。

同じテーマを繰り返すことなく、新しい課題を見つけて、進み続けている。

 

それはやっぱり勇敢で、弛まぬ努力だ。

まさに地道wド根性ww死ぬほど負けず嫌いwww天才というか鬼才の執念の域www

 

次回作を傑作にするために、必要な内省的作品だった。

という評価をいつかさせてほしいと思うなあ。手の平クルクルしたいww

 

そういえば「君たちはどう生きるか」というタイトルは、

男性的・父性的な視点の言葉かもしれない。

 

女性性・母性が命を産み、育むものなら、

男性性・父性は、その命の使い方を決めるものだ。

役を与え、目的遂行のために死ぬことを命じることさえできる。他人にも、自分にもだ。

 

進撃の巨人は父性表現の多い漫画だが、アレで言うと、

ピクシス司令が「我々はこれより奥の壁で死んではならん、どうかここで死んでくれ!」とか、

兵に決死の覚悟を促し、作戦を展開し、ピクシス司令自身は壁の上から動かず、常に全体の情勢を見てる、ああいう感じだ。

 

どろろだと領主醍醐が、領地と領民のため、我が子と引き換えに鬼神と取引をする。

我が子百鬼丸を、犠牲、生贄という役に任じる、ああいう感じだ。

 

まあ、父が子にそういうことを強いると、大体は叛逆の物語になるけども。

 

鬼滅の刃では、お館様、産屋敷輝哉は、妻子もろとも自爆したな。

鬼を滅するためには、妻子にも死を命じることができるし、もちろん自分を囮にして死ぬこともできる。

 

父権存在も、子に率先して自分の命を賭けて目的に殉じてるとなると、その覚悟に一定の敬意を払う気持ちになるよね。

 

命以上の価値を見いだして、そのために命を使う。それを使命という。

それは他者に命じられるもの、というよりは自覚して、自ら覚って、自らに課すのが本来だと思う。

 

息子が父性に導かれまた越えていく、善き典型としての物語なら、天元突破グレンラガンかな。アニキは主人公に生き方を示して退場し、主人公はどこまでも上昇していく。

 

自分がどう生きるか、心の求めることを知っている。自分の命の使い方を決められる。

自分の望むまま生きて、誰のせいにもしないでいられる。それが自立だ、自由自在の境地だ。

 

人は一人の例外もなく、母から産まれる。

そこから母的な存在に守られて育ち、父的な存在に規律を教えられる。

親存在が求める役割に従う間は、子的存在だ。庇護されると同時に支配もされる。

それが窮屈になったなら、自立の時だ。親存在と対峙する。

対決して勝利すると立場の逆転だ。勝利によって群れのリーダーの交代になる。

あるいは、自分の内面に新たな指針や理想を見いだして、共同体を離れる。

旅に出て、伴侶と出会って、新しい共同体をつくる。

そして自分の器量で、その組織、家庭を運営していく。

自立すれば親と対等の存在として協調していけることもあるだろう。

 

まあ、男子の一生とは神代の昔から、概ねそんなもんではないだろうか。

 

近代化したからと言って、人の精神構造の基本形はそうそう変わらない。

親存在、支配者に見立てるものが、父親、先生、師、上司、規範、自然、会社、組織、権力者、色んなものに変わるだけだ。

どこかでなにかを越えないといけなくなる、精神的な親殺しってやつが必要になる。

70歳越えて、全力でもがいてるバランスの悪い天才だっていますしねw

それでもいいんだよな。いつでも遅くない。年齢に関わりなく、魂は成長することを望む。

それを叶えているその時こそ、ほんとうの幸いで、至福を追求してるって感じがすることだろう。

彼の求道に幸いがありますように。

 

 

まあ、父性についてはそんな感じになってしまうわけだが。

他にもこの作品の見どころはある。

夢、風、生きて、創造的人生の待ち時間は10年…、繰り返すキーワードの意味だ。

そこは次の記事で。

 

 

 

 

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以下広告と余談。

 

監督本人のドキュメンタリーのDVDってか~。次作の資金繰りに色々解禁してるよね~。

グッズ展開や展示会が中心で、コラボとかパチスロ化とかゲーム化とかしないのがジブリブランドだけど、

風の谷のナウシカの歌舞伎化にオッケー出したのはわろたww

次は宝塚っすかねwwwもののけ姫とか向いてそうww

 

メーヴェ腐海や砂漠を飛び回れるオープンワールドゲームあったら買うけどなぁ・・・。風ノ旅ビトみたいな雰囲気ゲーがいいな~。

ICOみたいにひたすらラピュタ湯屋を探索するゲームも悪くない・・・。

 

大神みたいに、モロの子供達やコダマやトトロやまっくろくろすけ、テトやカルシファーと、木を植えたり水をきれいにしたり動物と仲良くなったり、自然を癒していくようなゲームとか。

ゆるめのソシャゲでもいいなあ・・・。

 

あったらいいなあ・・・。

 

 

 

 

 

安さがおすすめ進撃の巨人アニメ一期DVD。

3Dでぐりぐり動く立体機動の表現に一見の価値アリ。

 

どろろ面白いんだが、廉価版が出るまでもうちょっと様子見・・・。

 

鬼滅フィーバーしててうれしみ。推しキャラがさくさく死ぬのがつらみ。

 

この大澤義考著のタロットの解釈本は面白くておススメだ。

ほどよくサブカル感のあるくだけた文章に、

幽体離脱のメソッドで直観したという内容は、

作者の確かな実感がこもっていてユニークだ。

象徴、解釈、そういうものに興味ある人、このブログを読むような人に向いてるww

 

 

 

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風立ちぬを解釈する1 空を飛ぶのは、魔法か、科学か。

風立ちぬ [DVD]

 

風立ちぬも、久しぶりに見ると違う視点があったなぁ。

 

赤毛や赤は、魔女や魔法の色で、

男性の主人公像は順を追って成長してるという、

以前の記事の内容を気にしながら見ると、

 

 

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菜穂子も加代も黒髪だけど、赤を身に着けてる女性であることに気が付く。

 

そして二郎も、菜穂子という魔法を持った女性に出会うまで、飛べてないんだなぁ、ていうね。

 

風立ちぬの前半は、飛行機が落ちる描写が多い。やたら多い。

 

少年時代の二郎の、夢の中の飛行機も落ちる。

これはオベリスク(父性の象徴)に抑圧されている描写でもある、父性については後述する。

 

震災の日の白昼夢で、カプローニの三階建ての飛行機も落ちる。

 

三菱に入社してすぐ携わった試作機も落ちる。

 

ドイツのユンカース社を視察した後の、夢の雪原でも飛行機が落ちる。

 

そして二郎が設計を任された試作機も落ちる。

 

落ちまくりだ。

 

そして気分転換というか、失意を癒して英気を養うための軽井沢滞在で、

魔の山、魔法の力に満ちた場所で、

次郎は菜穂子に出会う、再会する。

 

赤いリボンの帽子を被った菜穂子のところから、風にとばされたパラソルを受け止める。

 

ホテルでもちらっと目配せするけど、

運命の二人の邂逅はもっとドラマチックに、象徴的に演出される。

 

木立の中へ、ちょっとくぐるようにして入って、小川の先、小さな泉で、二郎と菜穂子はあらためて名乗り合う。

 

まあ、繁みの中、湿った道、ていうと産道のメタファーですね。

円い波紋をたてて水の湧く泉は、胎、子宮だ。

宮崎駿のお得意のトンネル表現で、風立ちぬでは胎内回帰的だ。

 

二人はそこから、一対のカップルという新しい存在として生まれてくる、

菜穂子が「とてもかわいい赤ちゃん」の話をするのも、そんな意味っぽい。

 

木立から出てくるとき、暗雲で大雨が降っていて、それは産道をくぐるというクライシス、産みの苦しみの表現だ。

大雨が降って、羊水に満ちた水中世界から、水が流れて出て、乾いた陸の世界へと産まれていく。

そして雨上がりの虹は、新しく生まれなおした二人への祝福だ。

 

菜穂子に出会ってから、二郎の飛行機はうまく行くようになる。

 

一度は落ちてから再生して飛ぶ紙飛行機がその象徴になってるけど、

病床の菜穂子と手を繋ぎながら設計した飛行機は、飛ぶ。成功する。

赤を身に纏う魔女的な女性、菜穂子の持つ魔法の力が添えられることで、

やっと飛行機が飛べるようになってる、そんな感じにも見えるというか。

キキに寄り添われて飛ぶトンボや、シータと一緒に飛ぶパズーと、同じ構図だ。

 

「空を飛ぶ」ということは宮崎駿にとって魔法の範疇のことなんだろうな、と思う。

 

キキが、魔女が空を飛ぶときは「なにも考えなくても飛べたの」で飛べる。

鳥や虫も空を飛ぶとき、きっと自分がどうやって飛んでるかなんて考えてないだろうけど、そんな心だ。

 

メーヴェや飛行石や箒、

重力とか揚力とか翼断面とか空気抵抗とか、科学的な見地からすると飛べるはずがないもので飛ぶ、

ただ、そうできる気がするから、できる。みたいな理屈抜きの感覚の力で飛ぶ。

竜のハクや魔法使いのハウルの空中散歩もそうだ。

受け容れること、感覚の力、右脳的な力、女性性、魔法のちからだ。

 

それを、積み上げていくこと、理知の力、左脳的な力、男性性、科学のちから、

そういうもので飛ぼうとして飛行機をつくると、試作が落ちまくるって描写になる。

 

人類の夢、美しい夢、そして大空はすべてを呑みこみ、誰も帰って来ないという、

どうしようもなく追い求めてやまないもので、底なしの恐ろしさでもあるもの。

それは自分がいつも言いたいアレの感触だ。

 

うーん、そうだなあ。

飛行機が今、何故空を飛べるのかっていう理屈はだ、揚力とか抵抗とかサバの骨とか、

観察されて検証されて、科学で解き明かされているのかもしれないけどだ。

 

それを自分の中の確かな実感あるものとして語れる人って、人類の何パーセントいるんだろうね。

 

現在の世の中で、飛行機が飛んでるのは、そういうもんだから当たり前だ。

人工で作った機械が飛ぶんだから、飛ぶということは科学的に解明されてるはずだ。

と、大多数の人はそういう思いこみを持っているだけっていうか。

 

飛ぶ、ってどういうことなのか?

 

ちょっとあらためて考えてみると、こうも思うんだよな。

 

鳥や虫、飛ぶという現象を知ろうとして、飛んでいるものの構造を地上でいくら解体してみてもだ、

飛ぶことの本質は、羽ばたいて空にある、その瞬間だけ成立してるなにかなわけで。

 

それは命に似てるかもな。

 

風は、宮崎駿が得意なメタファーで、命のメタファーでもある。

漫画風の谷のナウシカ「私たちの命は風のようなもの、生まれ、響き合い、消えていく」っていうのがあるけども。そうだ。

 

生きているという現象を知ろうとして、

生きていたものを解体して、精細な解剖図をつくって医学が発展しても、

生きてるってことの本質は、生きている瞬間にしかなくて、

いくらバラバラにしてみても生命を生かしてるちからがなにかってことは解らない。

 

鳥でも魚でも、日々生きてたものをさばいて食べる。殺すのは簡単だけど、

解体した生命体を繋ぎ合わせて、また元通りに生かすことなんてできないじゃん?

命の本質を解明できないから、死は不可逆なわけだ。

 

科学の粋を凝らしても、遺伝子の組換えや細胞の培養が今のところせいぜいだ。

脳や心臓を作れるようになったとして、人工的に培養した各部位を外科処置で繋ぎ合わせてみたとしても、

それが恒常性、動的平衡を保つひとつの生命として起動することはないだろう。

どう頑張っても、すごく新鮮な死体ができるだけなんじゃないか。

 

自然が、女性が、新しい生命を生むことは、

信じがたい奇跡でも魔法でもありながら、どこにでもありふれたことであって、容易にさえ見える。

 

しかしそれを解き明かし、更に再現しようと思ったら、百年や二百年の研究では到底足りないんだな。無数の試作、長い試行錯誤がいる。

 

宮崎駿にとって、空を飛ぶってことは、新しい命を生むってことと同じくらい、

ありふれて当たり前のようでいて、考えれば考えるほどわからなくなる不思議なことで、

女性はなんとなくでやっちゃうんだけど、少年が真似しようとすると越えなきゃいけないハードルがめっちゃ多いことっていうか、そんな感じに見える。

 

うーん。いや、解らないでもないんだけどさあ。なんか変なんだよなあ。

 

宮崎駿の作品には一貫した女性性への賛美がある。

魔法を描く監督であって、科学を描かない。

 

二郎が、科学のアプローチが、やっと空を飛ぶ飛行機を作れた。

その次の場面がもう、累々たる飛行機の墓場になる。

 

カプローニと二郎、空に魅せられたものの夢の王国、

科学によって飛ぶ夢が成就した途端「地獄かと思いました」という光景になる。

 

女性性・魔法には賛美があって、男性性・科学には否定、悲観がある、と言わざるを得ない。

 

巨神兵墓所ラピュタも、超科学はいつも世界を脅かした遺物として登場する。

男なんて折角何かを生みだしても、それで戦争ばっかりしてどうしようもない、とか?

そういうものの考え方が根底にあって逃れられなくて、苦しい、そんな感じがする。

 

自然の猛威として津波や震災も描くんだけど、その場合は新世界や復興もセットで描かれるのにね。

 

そうだなー。

自然と人工という対比は、

創造と解体という対比、

魔法と科学という対比、

女性と男性という対比に照応するけれども、

それは象徴の理解として正しいけども、

 

それは対比であって優劣ではないし、 

女性も、女性だけで新しい命を生むわけではない。

 

女性と男性、両方が交わって新しい命の萌芽になるわけで。

卵と緒、聖杯と聖剣、凹と凸、陰と陽、粒と波、-と+、右と左、

対になる原理が釣り合って、両翼が揃って羽ばたいてはじめて飛翔できる。

混元、空、無限、0、「 」そういうものにアクセスし、創造を引きだす鍵はそれだ。

 

無から有へ転じる最初の創造物、それが命だ。存在するという指向性だ。

命、生きてることや、飛ぶことや、真とか善とか美とか、愛とか。

誰もが知っていて求めていて、しかし解明とか定義しようとするとうまくできないもの、

インスピレーションでしか確かめられないもの。

それはとても0なるものに近い。

 

魔法より科学より、先にあるもの、それを奇跡と呼ぶとなんとなくしっくりくる。

 

ハウルの動く城でも、魔女よりも科学者よりも、天使になるほうがいいってことだったわけで。

 

飛行機が空を飛ぶということ、魔法と科学が止揚して、夢想が現実になることは、

二郎と菜穂子、男女がひとつに和合している瞬間、最も素晴らしい奇跡として顕われた。

 

じゃあ、愛の結晶として、魔法も科学も超えた奇跡として、二人の飛行機が空高く舞い上がり、

今までの作品にないことを成し遂げた、希望のラストになっても良かったと思うんだよね~。

 

だというのに、だ。

 

完全な一対の天使だったカップルから、片翼が失われるという展開にする。

菜穂子が去ってしまった時、飛行機は夢の残骸に成り果てる。

苦しい、けど生きねばならない。そういうラストになる。

 

ソフィ・女性主人公で描けたことが、

二郎・男性主人公では描けない、と、どうもそういうことらしい。

 

それはなぜか。

 

これも作中から読み取ってみたいと思う。

 

 

風立ちぬ、は、堀越二郎っていう実在のモデルもいるけど、

例によってこれも全然原作どおりとは言えなくて、監督の独自色が強い。

70歳まで生きた宮崎駿が自らの内面を見つめた作品だ。 

今までの人生を走馬灯のように振り返ってて、

自叙伝とか、私小説とか、そんな趣なんだけど。

 

いやぁ~、よっぽど父親と折り合いが悪かったのかねぇ?

 そんな感じだww

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

inspiration.hateblo.jp

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PSYCHO-PASSを解釈する。シビュラ。意識のオンラインネットワークとは。

シビュラの制圧

三期ヤッホイwwちょっと新コンビがチート過ぎませんかww

刑事モノから、なろう系に味付けが変わった的な?

あの金色の模様の球体のホロかっこよくて欲しい。

 

さて、ちょっと世界観を説明しつつ書くかー。

一期と劇場版のネタバレ全部盛り注意です。

 

 サイコパスと言えばシビュラシステムだ。

命名の由来は、ギリシャ神話の神託の巫女。

包括的生涯福祉支援システムとのことだが、その概要は多岐に渡る。

 

サイマティックスキャンで生体力場をどうたらで、人間の精神状態を遠隔で読み取る。

人間のその時の気分が色と数値で示され、イライラや落ち込みがひどい時にはセラピーを勧めてくれる。

生涯に渡ってそのデータを収集し、そこから向いてる職業や配偶者をチョイスしてマッチングしてくれる。携帯端末にピローン♪で通知が来る。

街中のあちこち、私室でも、いつでもどこでもスキャンされてる監視社会でもある。

 

この時点でも相当色んな議論のタネがあるがw

サイコパスの作中では、大衆はほぼそれを好意的に受け入れているというか、

もう、それがあって当たり前の世界って感じだ。

 

人は、便利なものにはすぐ慣れる。

ほんの二十年でパソコンもネットもスマホも生活必需品になった流れを思いおこせば、

そんなもんだろうなって気がする。

就職や恋愛や結婚で悩まなくてもいいのは、ありがたいだろうなww 

その代わりに身の丈に合わぬ夢も挫折もない、セーフティ過ぎる社会だ。

 

船原ゆきが「自分は、任せきりで楽ちんで、考えてなかった。」というけど、

これがシビュラの託宣のとおりに生きる一般市民の感覚だろう。

 

んで、素直にシビュラを受け入れられる人はいいんだけど、

世の中には必ずひねくれ者やはみだし者、アウトサイダーがいる。

スキャンで読み取った精神状態が、シビュラの定める基準に満たないものは、

犯罪係数がオーバーしてますとか言われて、収容施設に入れられる。

もしくは執行官として採用されるかだ。

 

何もしてないのに逮捕されるとか、非人道的な話だと思うけど。

近未来シビュラ社会からしてみれば、

犯罪を犯しかねない精神状態にある者がその辺をうろうろしている現代社会の方が、

野蛮で危険で信じられないってことになるんだろう。

疑わしきは罰せずが基本で、警察は事件が起きてからじゃないと動けないのが現代だ。

 

実際、なにごとか悪意による事件が起こればその手の議題は必ずある。

事前に察知して隔離は出来なかったんだろうか、ってね。

ほんと、刃物いくつも持ってガソリン運んでる人がいたら、職質くらいできてたらなと思うよ。

 

サイコパスの世界では、犯罪係数が規定値以上のものは事前に隔離どころか、その場で刑の執行までできてしまう。。

それがサムネのドミネーターという喋る銃だ。

 

ドミネーターという端末の本体、

サイマティックスキャンをしてそのデータから、

人がどう生きるべきか、あるいは排除されるべきか、判断している本体。

シビュラは、スーパーコンピュータとか、その並列処理だということになっているが、

一期の最後でその正体が写される。

それは巨大なビルの地下、透明な箱の中、液体に浸かった人の脳、その集合だ。数は二百余り。

 

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シビュラシステム

 

まあ、なかなか。

ディストピアの支配者にふさわしい衝撃的ビジュアルというか。

サイコパスの世界観だとラスボス的ポジションなので、

その外見や演出は、生理的嫌悪や義憤を誘発するものになっているわけだ。
到底親しみの湧きようもない。素直にキモい。

が、一期二期劇場版と、常守朱は彼らを打倒するのではなく、辛抱強く交渉する。

それがこの物語のヒジョ~に優れたところだと思う。そこは後述。

 

まず、シビュラだ。

ヒトの脳を、意識をオンラインネットワークにするというアイデアについてだ。

これ自体は実は、人間という種の持つ本質的な指向そのものだと思う。

私達は皆、他者と繋がりたい、より深く本質的にひとつになりたい。という希求を本能レベルで備えている、はずだ。人類補完計画・・・はまあいいや。

 

アニメ攻殻機動隊にはスタンドアローンコンプレックスという副題があるけど、

孤立の葛藤、それを完全に解消している存在がシビュラシステムだ。

 

攻殻機動隊の世界観にも、マイクロマシンを注入して電脳化、首の後ろにプラグ挿してネットに接続する、というサイバーでカッコイイやつがあるが、あれだと、

素子少佐が部下たちを自分の電脳に脳潜入(ブレインダイビング)させて情報を共有する場面で、

体調を野次ったり「ノイズが多いな」とか「ゴーストの近くまで潜るな」とか「さっさと出てかないと脳細胞焼くわよ」とか。

そういう感じになる。

 

他者とダイレクトに意識を接続、オンラインにすると、 

 

エゴの不協和音、ゴーストどうしの干渉、人格の混線、精神汚染、

 

まあ、語はなんでもいいんだけど、そういうことが起こる。

 

スタンドアローンであれば、外部から干渉されるデメリットもない。

他者とより密接に繋がりたいとも思っているが、自分の思考をダイレクトに覗かれるのは誰だって嫌だろう。

だからコンプレックス、葛藤だ。

恥ずかしいことも後ろ暗いことも知られたくないこともある。揺れ動く感情がある。エゴがある、人格が、個の意識がある。

 

 

五十嵐大介ディザインズの四巻がでたけど、あれでも同じだ。

エコロケーションによる高度な共感、精神感応、情報の共有で、完璧な作戦行動をとるイルカ人間チームは、

頭が真っ白になるような強い怒りとか、一人のネガティブな感情も全員で増幅してしまう。

チームの一人が、映像の世紀のやりきれない部分を煮詰めたような人類の醜悪さを目の当たりにして死んだ、その絶望に全員が囚われ、どうしようもなく突き動かされてしまう。

それが他者と意識の接続することのダークサイドだ。抗い難くてしんどいやつだ。

 

とあるシリーズの、ミサカネットワーク、というのはシビュラと同じで、

スタンドアローンコンプレックスをクリアした、意識のオンラインネットワークだ。

 

 クローン人間と、電磁波や脳波を操作する能力で、意識のネットワークを構築している。

ミサカ達も完璧な同調が可能だ。あれも100人とかいるんだっけ。

クローンだから、身体や脳の規格が同じで、

そして個の人格を形成する期間がなかったために、固有という意識や感情が希薄だ。

 だから、衝突するようなエゴがない。

 

で、シビュラだが。

シビュラに参加する脳たちには、もはや肉体がない。

だから肉体から発生する欲求のすべてに、もう意味がない。

食欲も性欲もない。

美醜とか他者との比較とか、なにか所有するとか金銭の使い道とか、そういうものの一切が、ない。

生前は難アリの人物だった脳が多いらしいが、そのエゴの多くが除かれた状態にある。

 

残るのは知識欲とか支配欲、存在を維持し拡大したいとか、そういう欲求だ。

 

シビュラに参加していた脳の一人がその感覚をこう語る。

「始めは戸惑ったがね。直ぐに其の素晴らしさが理解出来た。

 他者の脳と認識を共有し理解力と判断力を拡張されることの全能感。 

 神話に登場する預言者の気分だよ。何もかもがわかる。

 世界の全てを自分の支配下に感じる。

 人ひとりの肉体が獲得しうる快楽には限度がある。

 だが知性がもたらす快楽は無限だ。」

「此の全能の愉悦、世界を統べる快感!」

 

まあその。セリフの抑揚はイッちゃってるアブない人だったけどもだ。

 

 意識のオンラインネットワーク、

その高度な情報処理の素晴らしさっていうのは、そうだ。なんとなく想像できる。

 

その感覚の萌芽、それに近いものは、きっと誰でも経験したことがあると思う。

それはきっと、オーケストラや団体競技、皆でひとつの祭りに参加してる感覚だ。

 

一人で楽器を弾くのも楽しいけど、

オーケストラに参加して、たくさんの楽器とハーモニーをつくっていくという感動がある。

 

一人で踊るのも楽しいけど、

みんなでフォーメーションをつくって踊る、ぴたりと息の合う美しさ、一体感の感動がある。

 

音楽やリズム、流れにのって、指揮者に導かれて、

アイコンタクトとか阿吽の呼吸とか、そういう言葉の先にある感覚を使って、

あるハーモニー、調和を目指して盛り上がっていく。その快い悦び。

 

そういう感覚だ。

オーケストラに参加する奏者は、自分の音だけでなく、全ての演奏者と楽器の音、ホールに響く音、観客の集中、すべてが一体になって交響曲を鳴らしているのを感じるだろう。

 

それが個以上の処理能力の感覚だ。

 

渋谷のハロウィンで馬鹿騒ぎするのが問題らしいけど、

たとえば一人で、一晩中騒ごうと思っても到底テンションも体力も続かないが、

みんなでザワザワわいわいウェーイwwなら、朝までハイでいられるあの感じもそうだ。集中力、身体能力が向上してるw

まあ、程度が高いとは言えないがw皆と一体になって楽しいってのはそういうことだw

人は本質的にそういう状態への希求を持つ。祭り的なものを必要としている。

 

自分が一個の楽器なら、シビュラはオーケストラで、

自分が一個のPCなら、シビュラは並列処理のスパコンだ。

 

まあ、脳みそを取り出してシビュラに参加しますか?

と問われたら、当然答えはNOですけどwww

 

っていうか、あれはあくまでサイエンスフィクションであって、

生物は脳だけでは長時間生きられないだろうなーと思うし。

 

それに、エゴを除くために肉体から脳を取り出してるなら、

逆にエゴさえ除けるなら、肉体があっても別にいいわけですよ。

 

例えば、音楽にノッてる時、右脳はメロディーで、左脳は歌詞の情報を処理するので忙しい。

踊ったり歌ったり演奏したり、身体を動かしていればもっと脳は忙しい。

 

集中している時、余計なことを考えているヒマがない時、エゴは鳴り止んでいる。

その状態に至ってる人の間で意識のオンラインネットをすればいいんだよ。そんだけ。

 

音楽の力は偉大だが、慣れれば音楽なしでもできるようになる。

アファメーションをして瞑想状態をつくってから、他者とシンクロすればいい。 

もうほんと、それに尽きる。

 

シビュラや攻殻ではコードで接続してるけど、

有線で出来ることは、無線でも出来る。

黒電話から携帯電話になって、電話線がなくても電話ができることに、なんの疑問もないはずだ。そんなもんだ。

シンパシーやテレパシーは、脳の標準搭載装備だ。

アンテナの感度とか習熟度が人それぞれなだけ。

 

 

意識のオンラインネットワークは、とても大きな情報処理だ。

あらゆる命題の正解が、思考でなく直観としてパッと解る。そんな感じだ。

 

このモードの活用法、可能性は、人の集団の活動するあらゆる分野で応用可能だ。

芸術やスポーツや祭事でももちろん素晴らしいけど、

 

シビュラは厚生省のシステムだ。

そう、ほんとは、政治にこれが使えたら世界は変わる。

世界中が紛争状態になってもシビュラのある国だけは秩序を維持できるのも頷ける。

 

小さな宇宙人アミでは、文明が進んだ星の政治はそのようにして行うっていう描写があったな。

地球の少年の目には、円形の神殿のような場で、皆でお祈りでもしているのかなっていう風にうつるらしい。むべなるかな。

 

国会で、対立の形、対決の形に机と椅子を並べて交代に答弁するとか、

あの形式がもう、エゴとエゴの衝突する場になるしかないんだよなー。

象徴とか図像とか形式とかの力ってそういうものだ。その形に沿って意識が動く。

あれでは、誰の脳もパフォーマンスを発揮しようもない。

高次の意識の人から対立やノイズで疲れてしまって、

エゴの強い人、我の強い人、次元の意識が低く共感能力の低い人が元気で残るだけw

 

ま、政治批判する気はない。

だいたいノイジー過ぎて国会中継を見てられないwww

サイレントマジョリティーとしておとなしくアニメ見てますww

 

 

というわけで、シビュラシステム。

200余りの脳と脳のオンラインネットワーク。

その方向性に関しては、人類という種の希求する進化の指向性と一致してると思うんだよな。

 

 

ただ、アニメサイコパス世界でのシビュラは高圧的な支配者の側面が強い。

エリミネーターで即時死刑執行はやり過ぎだ。

 

倫理的にもダメだが、合理性にもダメだ。

 

だってシビュラは人の脳でできている。

脳も肉体の一部である以上、寿命というものがある。

つまりシビュラは200余りというユニットの数を維持するために、

常に社会から参加する脳をピックアップする必要がある。

で、あるからには、母体である社会には優れた脳が多いに越したことはない。

 

支配者が機械、AIのパターンのディストピアと違うのは、ここだ。

シビュラは人なしで存在し続けることができない。共生関係を築く必要がある。

同じ規格を使っている知能として、交渉の余地がある。

 

サイマティックスキャンによる色相の濁り、ストレス。

まあそりゃ、ストレスは少ない方がいいけどもだ。

 でも、病んだり傷ついたり悩んだり挫折した経験が、人を大きくするってことがある。

色相が著しく濁った後、それをクリアに戻せた経験をした人は、ずっとクリアなイイ子よりタフになっているはずだ。

 

そういうタフネスをつくるためには、異分子を隔離したり、異端を排除してたらダメなんだよなあ・・・。

人は、一ヶ月も寝たきりだと立ち上がるだけで脳貧血を起こすんだけど。

使わない能力は速やかに退化し、錆びる。安全すぎると最低限の自衛すらしなくなるだろう。

 

安全すぎるシビュラ社会では、ストレス欠乏によって平均寿命はむしろ短くなる傾向にある、と槙島聖護も言っていた。

 

だからヤバイやつは早めに隔離しておいて地域を安全にする、よりも、

住民が互いに気を配ってヤバイやつがヤバイ気配を出したらすぐ対処できる地域づくり、のほうがより望ましくはあるんだろうな・・・。

 

どんな人も、槙島聖護のような幼い学びの人も、執行官たちのような幅広い個性的な人達も、船原ゆきや監視官達のような優等生も、常守朱のような老成したものも、

ほどよく混在していてこそ、柔軟な強さをもつ社会になる。

 

ま、アニメでは万人に1人の免罪体質者を取り込めればいいってことになってるから、

免罪体質者以外の脳のクオリティはどーでもいいのかも知れないが。

 

そんな偏ったチョイスであっても、200余りも集まれば、個々の性質は問題でなくなってくると思う。ユニットの性質より、規模の性質になるだろう。

 

ネットワークというのはそういうもんだ。

 

「ネットワークが知能を創発する」っていう話がある。

 

知能の正体は、ネットワークである。とも言えるな。自分はそう思う。

 

脳細胞一個一個の性質は問題じゃなくなって、

脳自体の、集合としての性質が顕われるっていうか。

 

群知能という項目のウィキとかを見ると面白いんだけど。

アリの巣や、蜂の巣、魚や鳥の群れ、粘菌、

ユニットの集合、複雑な構造の中を行き来するインパルスが、知生体としての振る舞いをみせる。

 

人間の脳も、脳細胞というユニットの集合、ニューロンのネットワークなわけで。

更に、一人の人間の頭蓋に納まっているニューロンのネットワークをひとつのユニットとカウントして、オンラインにして並列処理する。

するとワンランク、スケールの大きな情報処理にシフトする。

個人用のPCをオンラインネットワークにして並列処理にしてスパコン的な大きな情報処理にするっていうかね。

 

そうすると多分、ユニットの自己認識が希薄になり、集合の自己認識が顕われる。

 

シビュラに参加している時、個々の脳は自我を忘れ、

「自分はシビュラだ」という大きな意識を感じていると思う。

で、シビュラから離して義体に入ったりすると、またひとつの脳としての自我を思い出す。

 

ネットワークというのは、小さいまとまりの時も、大きいまとまりの時もそれなりに成立するんだよな。

魚の群れが100匹の時も1000匹の時も、整然とひとまとまりで泳ぐ、ああいう感じだ。

 

人間の脳が100匹が魚の群れなら、

シビュラは×200で、20000匹の魚の群れだ。大きなまとまり、ひとつの大きな知生体だ。

 

で、劇場版ではシビュラは海外に進出している。更なる拡大を指向してるんだよな。

 

海外にもう一つ脳の集合、シビュラをつくり、そこと日本とをオンラインに繋げば、点だったものが線になる。

 

シングルコアが、デュアルコアになる。

コア数を増やして並列処理すれば更に情報処理能力が拡大する。

 

海外拠点をどんどん増やして、衛星を経由してどんどん繋ぐ。線が網になる、ネットになる。

シビュラが地球を覆う規模の知能のオンラインネットワークを目指すことになるなら、

人の頭蓋骨に納まってた脳が、地球サイズに拡大してシンクロしたとき、

 

そこでどんな情報処理が行われるのか・・・、

 

個も種も遥かに超えた、星の意識っていうか、そんな感じがするのかなぁ・・・。

 

銀河だって星々で構成されている、あるネットワークであって、

何かの情報処理をしてるかもしれないわけだ。

脳、脳の集合シビュラ、マルチコアシビュラ、星、銀河、

規模によってシフトする、ネットワークのフラクタルだ。

 

 

シビュラはそういう境地を目指して、朱さんにビシバシ鍛えられつつ頑張って欲しいと思う。

ドヤり過ぎ禁止。民意を問え、だ。

 

 

一期ラストと劇場版のシビュラは交渉できる手強い支配者として良いキャラだった。二期は逆ギレだったが。

三期はどんなシビュラが見られるか楽しみだ。

 

 

 

 

 

PSYCHO-PASSを解釈する。槙島聖護、至福の追求。

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サイコパス三期とても楽しみだ。人気タイトルになって嬉しい。

スレッドで一期二期の内容を解釈した内容をまとめておこうと思う。

 

一期の敵役、 槙島聖護というキャラクターが好きだ。

残念ながら一期で退場したが、サイコパスのヒットには彼の魅力も大きく貢献したことに疑いの余地はない。

リアルでは絶対に絶対に遭遇したくないタイプだが、フィクションの世界ではああいうタイプの悪もいい。

 

ジョジョの悪役や、鬼滅の刃の無惨や童磨、ネウロのシックス、バッカーノのラッド・ルッソ、チキタ・グーグーのラー。

 

一言でいうと、理由なき悪っていうかな。

彼らには、同情できる過去とか、悪を成すに至る人格形成っていうか、そういうのがない。

彼らの悪は、復讐とかトラウマとかコンプレックスの裏返しとかではない。

愉悦部ていうか、楽しいからそうする。

そのように生まれついたから、そうする。

そんな感じだ。湿っぽさがなくて、心からの笑顔、無邪気な眼差しでイキイキと、エグイ悪事を働く。

 

 

「至福を追求せよ」という言葉がある。

神話学のジョーゼフ・キャンベルのよく言った言葉なんだけど、

単に肉体的な欲求の解消とか以上の、自らの魂の求めるところに従うっていうかな。

美空ひばりが「歌は私の命」とよく言ったけれど、そんな意味だ。

命、いのち、めいずる。

生命の命と、命令の命が、同じ字を使うのにはそんな意味があると思う。

命、というのは、モノの集合の肉体を動かしている不思議なちからで、心の源で、

ある存在を存在たらしめているベクトル、指向性、そんな感じだ。

 

いのちは、なにかをめいじている。目指している。

それがなにかは、その人にしかわからない、生まれてきて生きている由だ。

 

「歌が命」だと自らの内なる声に従い、その研鑽に生涯を捧げるというなら、

それは本人にとっても周りの人にとっても幸せな求道だと思うけども。

 

そういう至福が、いわゆる公序良俗に必ずしも合致するとは限らないのが、この世界の奥深いところだ。

 

伊集院光の のはなし というエッセイがある。

中二病、という言葉を使いはじめたのは彼だって話があるけど、

皆が忘れてしまう子どもの時の感覚を忘れずにいて言葉にできる、稀有な感性の人だと思う。だいたいふざけてるけどw

そのエッセイの中に、ザリガニの話がある。

 

伊集院少年は小学校低学年のとき、近所のドブ川でザリガニをとって遊んでいた。

ザリガニは共食いをするので、最初の一匹を手で獲れば後はいくらでもとれる。

当時の小学生は小刀や爆竹を当たり前にもっているし、

大人の監督もなく子供が下町で遊んでる、色々とおおらかというか大雑把な時代でもあった。

ザリガニやカマキリは、自分より大きなものでも威嚇するし挑む生き物だ。

獲ったザリガニどうしを戦わせるところから始まって、

ザリのハサミに爆竹をはさませて近所の野良犬にけしかけてみたり。

ザリと爆竹を〇〇に詰めて〇〇したり、走ってる車に〇〇したり、相当アブナイ遊びをしていた。

 

エッセイには、小学生男子がどんな気持ちで遊びをエスカレートさせていくのが綴ってある。

あまりにもいくらでもとれるし毎日そうやって遊ぶので、相手が生き物だってことがマヒするというか、

次はああしてみようこうしてみよう、もっと刺激的なことをしてみよう、という無邪気な創意工夫の面白さが、生き物への共感を上回っていくというか。

そもそもザリガニみたいな人から遠い生物には大した感情移入もないし。

 

この共感能力の未熟な小二メンタル。

このメンタルのまま、対象がザリガニから人間になってるのが槙島聖護な気がする。

「潜在犯に犯罪を実行する力を与えてみればいい、それで彼らが何をするか興味がある。」

なんて、ザリガニに爆竹を与えて戦わせてみようという、伊集院少年の発想となにも変わらないw

「信じられないかもしれないが、僕は君たちのことが好きだ」人間が好きだというのも、

ワルガキがザリガニを好きなように、興味の尽きないオモチャとして好きなだけだと思いますww

 

もちろん、大部分の人間は成長の過程でそういう時期があっても、

対象がザリガニや魚以上のものになることはあまりない。

犬や猫でも可哀想でそんなことはできないっていう人が大半だろう。

 

次元の意識の話でいくと、

槙島聖護のような者は、三次元のごく初心者、幼い魂だと言える。

「自と他がある」を知り「自分を愛する」を学び始めたところだ。

命あるもので遊んでみることで、命がどんなものか知る、そんな学びの段階だ。

 

彼は、

通常の規範からすれば、到底容認できない残虐きわまる犯罪者でありながら、

次元の意識とかスピリチュアル的な観点からすれば、学びの幼いだけの同胞でもある。

 

サイコパスでは免罪体質とか、特殊スキルみたいに言うけど、

魂の命ずる学びを、喜びを、ただ追求してるだけだから、色相はクリアなんだ。

ストレスも罪悪感も背徳感も鬱屈も抑圧も、彼の心は感じていない。

つまり、それを悪とは言えない、ってことになるんだよな。犯罪係数はゼロだ。

彼は彼の学びのレベルにおいて、道を追求しているだけだ。

なので槙島を説得するとか、反省を求めるとか、 セラピーや矯正プログラムでどうにかしようとかは、無理だ。意味がない。

彼の在り方は、彼なりに正しい、としか言えない。

 

彼のような人が、どう学んで成長していくか。

TONOという漫画家のチキタ・グーグーではそこがメインテーマだ。これ隠れた名作。

無邪気で可愛い人喰いが、ある少年と100年を過ごすうちに心がどう育つかっていう物語だ。

人喰いは、最初は腹が減るからその衝動のまま人を喰う。

いくらでも残酷に殺し喰うことができる。

まずくて食べられないある少年と出会い、暮らし始める。

色んな事件を通して、喧嘩したり笑い合ったりして、少しずつ、仲良くなる。

そんな時間をともに過ごした相手を、食べられなくなっていることに気が付く。

そんな物語だ。100年かかるってところが秀逸だよw

 

伊集院少年のようなワルガキがいたら、ある一匹のザリガニに名前をつけて飼わせてみることだ。

まあ、死なせる可能性大だが、毎日世話をして愛着の湧いたザリガニ、特別なザリガニが死んだなら、他のいくらでも釣れたザリガニの死とは違う、惜しさや悲しみを感じるだろう。小鳥や金魚、犬や猫でもそうだ。

 

槙島聖護も、共犯者のチェ・グソンや、好敵手の狡噛慎也と、そんな情が湧くまで付き合えたら良かった。彼らが死んだら悲しいだろうなと思えるまで心が育つという展開も見てみたかったけど。

 

まあ、サイコパスはそういうテーマでもないんでw

あくまで現世、この社会の物語、ハードボイルドな刑事モノなので、勧善懲悪が必要だ。

槙島聖護は、やりたい放題やらかした報いを受けて死ぬ。

ぶっとんでて理解できない悪役のまま退場するのも、それはそれで印象的で良かった。

 

ただ二期で、同じ声優を登用して、雛河翔、という人物を登場させるのは一種の救済か、転生ネタのような気もする。

雛、ひよこ、生まれたての幼いものという意味だ。

 

イキイキと悪の限りを尽くしていた槙島さんが、

雛河君に生まれ変わって、おどおどと常守朱を「お姉ちゃん」と呼んでついてまわってると思うと結構それも面白いw

物語のプロットのどこかの段階には、槙島を執行官に、仲間にするという案もあったんじゃないかと思う。

 

まあ、そんなもんじゃないかな。

アルさんのスレには、「加害者が、被害者側の陣営に転生するのもよくあること、そうやって傷つけたり傷ついたりして痛みを学ぶ」そんなことが書いてあったっけ。

 

悪いことをすると、地獄に堕ちるなんても言うけど、

槙島聖護のようなタイプは、地獄に堕ちることはないだろう。

彼は彼なりに、自らの魂の求めるところを行っただけだ。

それはそこだけ見ると、善いことですらある。

 

・・・鬼滅の刃の童磨も、名前に童、わらべ、幼いものという意味の字があるが、

多分そのタイプだ。共感能力も感情も未発達で、自分の死にすら恐怖がない。

恐怖による支配ができないので、パワハラ上司無惨様からはウケが悪い。

死を理解しない、個の断絶を知らない、というのは魚か爬虫類か、そうとう未熟だ。

 

それこそワルガキが虫を何百と殺してもなんの悲しみもない、そんな感じで人を食っている。

しのぶが「地獄に落ちろ」って言ってたけど、多分落ちないんじゃないかなぁ。

カナエや炭治朗が鬼を憐れむのは、残酷さが未熟や無知からくるものと解る人のもつ優しさだと思う。

 

小二男子のザリガニ遊びは、大人には見るに耐えない様相を呈することもあるだろうけど、

「可哀相だからやめなさい」と早々に取り上げるようなことをするのも考えものだ。

その遊びが楽しいうちは大人から隠れてやるようになるだろうし、

あまりに抑圧されればその歪みが大人になって違う形で表出する可能性もある。

その場合はワルガキの動機に大人の悪知恵が上乗せされて、よりヤバイ遊びにもなりかねない。

 

そういう学びが必要な段階がある。今はそんな事を思いもよらない善良な人達も、きっといつかは通ってきた道なんだろう。

 

 

そういえば、槙島聖護も童磨も、頭がいいっていう一面があるね。

 

槙島聖護はシビュラの正体に疑問を持ち、なんかいっぱい本の内容を引用して喋る。

電子書籍全盛の時代に、紙の本を愛好し、「紙のページをめくるのが、自分の感覚の調律になる」という実にそこだけは同意できるあるメソッドというか哲学というか、瞑想法みたいなものも知っていて、頭でっかちじゃなくて体も鍛えてて格闘もできる。

 

童磨も他人に望まれる言動が分かるとか、情報を重んじるとかそんな描写がある。

 

ん~。まあ次元の意識のレベルと、知能のレベルは、ふつうだいたい釣り合っているものだ。

メンタルが小二なら、悪事のレベルも単純な暴力とか小二的であるのがほとんどだろう。

そこがアンバランスだからこそ、幼いだけの者が凶悪な犯罪者になってしまうとも言える。

 

ただまあ、彼らは共感能力の低さゆえに、周囲の人間からガラクタの思考パターンを吸収することが少ないということはあるだろう。

常識や信仰、こうあるべきという思い込みにとらわれないでいられるし、

人の痛みなど思いもよらないからこそ、自分の楽しいことだけに集中できる。

ゴミアプリをインストールしないから処理サクサクのPCやスマホみたいなもんだ。

 

 

ああ、伊集院光といえば、NHK100分で名著で今ちょうど西田幾多郎 善の研究 という本を扱ってるけど。

あの本の定義で言う 善 というのはまさに人格的要求に従うことだという。

至福を追求し、魂のきたるところ、宇宙のつきるところにある、原初の混元たるものに瞑合すること、それが善だという。

それを〇という象徴であらわすという。

無限とか、空とか0とか愛とか大日如来とか、色んな呼び方があるもの、宗教や哲学やメソッドが示す最高のもの、言葉にならないものを、この本では善と呼んでるんだなあと思ったけど。

 

その定義を使うなら、悪というのは、

魂の指向を遮るもの、至福の追求を阻むものに他ならないんじゃないのか。

 

とすれば、執行官と犯罪者における善悪は逆転する。

己の魂に従う槙島聖護こそ、その名の通り聖で善だ。

法律、秩序、シビュラという最大多数の幸福を是とするものが、個人の追求にとって時に俗であり悪だ。

 

悪とは、罪とはなにか?

殺すのは悪いことで罪で、裁きと罰があるのは人の社会の秩序を守るシステムだ。

しかし生死する肉体は魂の仮の宿に過ぎず、殺して食うの連鎖は物質の世界の摂理ですらある。

人が死ねば、法も規範も執行官もいない世界に行くことになるとして、

そこでは自分の魂こそが唯一の法となる。誰が悪を決め罪を糾弾するか、それは自分自身だ。

己の魂の求めるものに真摯であったか、成長できたか。問われることはそれだけだ。

地獄があるとすれば、それは他者や神による裁きの場ではなく、ただ自責し続ける苦しみということになる。


悪も罪も罰も、閉ざされた心が見せる幻だ。無限へと心を開けば霧散する。

シルバーバーチとかだと、そういう世界観になっている。

そうだろうなって感じがする。

 

まあ・・・、善も悪も、命も魂も、所詮は言葉に過ぎない。

その視点を現世におくか幽世におくかで、その意味するところは容易に変わる。

 

その無限なるもの空なるもの0なるものの本質的感覚を知りたいと思ったら、

言葉を眺めているだけではいけない。その言葉が示す先に注目し、自らのものとして体得しなければ。

君たちは、何を見ている?

僕は、君たちを見ている。

 

「・・・・なんてね。」

 

 

 

 

 

 

 

 



サイコパス一期は見といて損はない。

 SFに乏しい昨今では貴重な良作だ。

 

 

 

 のはなし の一巻二巻は売り切れてるな。チキタも売り切れてる。

絶対面白いのに~。再販を切望する。

 

 

 


槙島聖護まとめ

セリフはここから拝借した。櫻井孝広の声まじマキシマムに適役ww

長~い一人語りをつい聞いちゃう絶妙な抑揚なんだよなあ。モノノ怪の薬売りも好きだ。

 

アルさんのやつ。

http://www.oumaga-times.com/tag/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6

http://allwise-song.blogspot.com/2015/04/

 

次元の意識。

inspiration.hateblo.jp

 

 追記、自分も小学生のとき、カマキリを飼い犬にけしかけて愉悦していたことをここに懺悔します。

今は、猫がたまに獲物を獲ってくるのに悲鳴をあげ、それもまた猫の学びと思いつつ涙目で供養する日々です。南無。


 

シビュラと常守朱についても次でまとめたい。