ものがたりを解釈する

アニメ、漫画、小説、神話、あらゆるものが語りかけてくること。最も深遠な、でも誰にでも開かれている秘密に、解釈というメソッドで触れていく。

ものがたりを解釈する。セーラムーン・ドラゴンボール・ワンピース

DRAGON BALL モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

今日は有名どころの話題をちょいちょいつまんでいく。 

 

美少女戦士セーラームーンR

 

セーラームーンRが無料配信中だ。

https://www.youtube.com/channel/UC7J1bN5V1kL6xJ42ue_W6Vg

自分的にはアニメオリジナルのエイルとアン編がお気に入りなんだけど、

武内直子原作のダークキングダム編とブラックムーン編が、うまいこと対になってるというか、反転してる構造になっているのに気がついた。

 

ダークキングダム編では、

超過去の因縁、前世の使命が現在によみがえってくる筋書きだ。

敵はクイン・ベリル、地下のトンネルがアジトに続いていた。

主人公の母、クインセレニティがキーパーソンになる。

 

ブラックムーン編では、来世かどうかはよくわからないが、

超未来から現在を脅かそうと敵が襲来してくる。

敵はプリンス・デマンド、UFO、空中要塞が描かれる。

主人公の娘、スモールレディがキーパーソンになる。

 

なんでも象徴や陰陽によりわけて考えてみるのが自分流の解釈のコツだが、

 

過去、地下、女性、これらは陰で、

未来、上空、男性、これらは陽だ。

 

現在、地上、主人公を中心に、両翼に展開する物語になってたんだな~と思った。

よく出来ている。

祖先と子孫となると、祖先が陽で子孫が陰のような気もするけど、まあそれはよし。

陰中の陽、陽中の陰ってこともあるしな。太極図の中の小さい丸だ。

 

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さてそれで、このところよく引用するエニアグラムのブログで、

仲間を集めていくことで、楽天的なJC月野うさぎがプリンセスセレニティとしての優雅なカリスマを得ていくことができる、という考察があったんだけど、

https://gunber.hatenablog.com/entry/back_usagi

これは少年誌で育った脳からすると、少し不思議な発想でもある。

 

仲間が加わったら、それで自分の力が増すってなんだろう?

自分の力というものは、自分を鍛えることで増していくものなのではないか?

 

っていう疑問がちらっと頭をかすめる。

これは男性的な発想だ。積み上げ発想、修行脳っていうか。分析、論理、左脳的。

 

最近のなろう系小説で、ティアムーン帝国物語っていうのがあって、随所にセラムンに影響を受けてる感があるんだけど、

この話ではセラムンよりもっと顕著に、主人公自身は無力なまま変わることなく、集めた仲間のバラエティによって事態が解決していく。

ティアムーン帝国物語~断頭台から始まる、姫の転生逆転ストーリー~@COMIC1 (コロナ・コミックス)

https://ncode.syosetu.com/n8920ex/

人脈、コネクションの力、というものに焦点が絞られた、ピーキーな面白さがある。

 

ティアムーンの極端な話作りで気がついたけど、

コネクションの力はそのまま自分の力であるっていう発想があって、

それはどちらかというと女性的な発想だ。繋がり発想、融和脳っていうか。同一視、共感、右脳的。

 

セーラームーンには、修行パートというものがなくて、新しい変身アイテムとかちょっとした感情のきっかけでパワーアップするけど、

小女誌的には、それでなんの疑問もないんだな。

それまでに仲間を集めていく過程、人と人との繋がりが広がって深まっていく過程があって、それがそのまま自分の力が増していく感覚になっているんだろう。

 

自分がどっぷり読んでいた少年誌の漫画では、より強くなるためには修行パートというものがあるのが絶対のお約束だった。

幽遊白書ジョジョ、ダイ大、うしとら、GS美神スプリガン・・・etc

師匠や先生に教わって、特殊な環境で負荷をかけて肉体を鍛えたり、集中力を養ったりする。

それがある臨界に達したとき、新しい技、新しい認識をゲットできるものなのだ。

 

そういう少年誌的発想の代表としては、やっぱりドラゴンボールだろうなーと思う。

主人公の悟空は、修行によってどこまでも限りなく強くなっていく。

 

最初の師は亀仙人、そしてカリン様、神様、界王様、界王神と、師のレベルが上がっていく。

亀仙人は島に住んでて、カリン様は塔の天辺に住んでて、神様は空の上に住んでて、界王さまはあの世に住んでる。界王神はもっと高い次元とか?で、

師のステージがより高く、天空方向へ上昇していく。

 

天下一武道会舞空術が登場してからは空中戦がデフォになる。

サイヤ人がやってきて、宇宙船が登場して、宇宙へ飛び出す。

その次は、未来から子孫と敵がやってくる。

 

空、宇宙、未来、バトルステージも常に陽属性の方向へ展開していくのだ。

 

ドラゴンボールにも共に戦う仲間はいるけど、

クリリンヤムチャ天津飯、ピッコロ、ベジータ

彼らは全員、最初はライバルや敵として登場したキャラクターだ。

各々、自分こそが最強であることを目指して研鑽しているタイプで、

役割分担とか得意分野とかチームワークとか、意外とそういうものに乏しい。

武力担当でないサポートキャラとして仲間になったのは最初期のブルマ、ウーロンくらいだ。

 

強大な敵を前に共闘することはあるけど、基本的に、

全員がトップを目指す競争相手、好敵手、ライバルであることが特徴的だと思う。

 

どこまでも上へ上へと上昇するしかなくて、戦闘力がインフレしていくのを止められない物語でもあるw

 

だいたい惑星を破壊できるほどのパワーを得たら、それは個には過ぎた力というもので、少しは葛藤が生まれるだろうに、悟空は実にあっけらかんとしたものだ。

 

「つええ奴と戦いてえ」「オラわくわくすっぞ」

シンプルそのものの動機のままに、どこまでも恐れず強さを欲する。

明朗快活、純真、真性の陽キャ

心に闇がない。いや、なさ過ぎるww人間味がないと言われかねないレベルだww

 

幽遊白書なんかだと魔界、地下方向に物語が進行するので、それが精神面にも出る。

戦闘力を得過ぎた幽助には疎外感や葛藤が生じる。

ウジウジを拗らせるクソガキを玄海師範はこういう名言で導いてくれる。

「人は気分次第で壊せるものを持っている。

おもちゃだったりペットだったり恋人だったり家庭だったり、国だったりする。

お前はそれが人よりデカい。それだけだ。

壊したくなったらその前にここに来な、まずあたしの命をくれてやる。」

こんな師範がいたらグレられないよなぁ…。師範惚れるわ。

 

いやほんと、考えてみたら、気分次第で何もかも壊せてしまうほど強いって、怖いと思うよ。

大事なものをうっかり壊してしまわように、気軽に怒ることも嘆くこともできなくなっていくんじゃないかな。

 

悟空は、そんな湿っぽいかったるいことは考えもしないから強くなれる。

まずそのメンタルモデルが神話級だな。孫悟空、斉天大聖、ハヌマーンの名に恥じぬ内面と言えようw

 

鳥山明魔人ブウ編で原作を締めたけど、

今もアニメではギャラクシーバトル、異次元バトルみたいな感じで続編がつくられている。

 

鳥山明の感性は、極端に陽的で、男性性に偏って突き抜けたものだったんだな~と思った。

ただ、魔人ブウの、人をお菓子に変えちゃう魔法とかはちょっと方向性が違ってる。

魔法、陰的なものにシフトしていくこともできた可能性があるけど、それまでのバトル展開方向とは相性が良くなかったのか。

時代のニーズ、読者のニーズに応えるのが当時の漫画家のお仕事っていうか、

一度ウケたことを何度でも繰り返しやらなくちゃいけないっていうのも、ツライことなのかもな。

シリアスバトルより、子どもみたいな無邪気で突拍子もない発想があるところが自分は好きだった。

 

で、

 

仲間を集めて進むのか、自分自身を鍛えて進むのか、

 

という陰陽の二択の命題があると考えついて、

自分自身がどこまでも強さを得ていくのがドラゴンボールだったんだけど、

仲間を集めて強くなる、の代表格もジャンプの看板漫画にあったと気がついて驚いている。

ワンピースだ。

 

まずワンピースは海賊の物語、海の物語だ。

象徴でいうなら地下も太母だが、海も太母だ。母なる海。

 

ルフィは初めから専門職の仲間を募る。

集まった仲間は剣士、コック、航海士、狙撃手、医者、船大工、考古学者、音楽家、だったっけ。

 

ドラゴンボールの仲間は、全員のジョブが戦士オンリーだったわけだが、

ワンピースの仲間は、各分野のエキスパートたちだ。ついでに腕っぷしも立つんだけどねw

 

船長のルフィは、

「おれは、剣術を使えねぇんだ、航海術も持ってねぇ、料理もつくれねぇし、

おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!」ゴーン。

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と宣言する。ティアムーンの主人公もこれなんだよな。周りの有能メンツがうまいことやってくれるのに任せて自分はイエスマンでいたいと言うんだ。

リーダー、船長、ルフィ自身に必要なのは技能ではなく器量だ。方針を決定する意志、みんなをまとめられるカリスマだ。

 

ドラゴンボールは、結局のところ悟空ひとりが最後に立つ勝者であれば、それでどうにかなる話なんだけど、

ワンピースはそうじゃない、全員の技能が噛み合ってこそ海賊一味として機能する構想になっている。一応。

 

ドラゴンボールには各編に修行パートが入るけど、

ワンピースはほとんど修行の描写がない。いきなり二年後になってパワーアップが済んだことになっている。

 

ドラゴンボールは天空方向へ物語が進行するが、

ワンピースは洋上、水平方向に物語が進行する。

途中、空島とか海中とかあるけどね。

惑星の丸みに沿って、やや下降しつつ進んでると言ってもいいかもしれない。

 

ドラゴンボールは未来と繋がって来訪者が来るけど、

ワンピースは、過去の因縁を回想するパートが毎回入ってそれがまたやたら長い。

あと、考古学者がメンバーにいるけど、過去の遺物、古代兵器が重要な伏線らしい。

 

陰か、陽か。地底や海か空か、女か男か。

仲間か、自分か、

繋がるか、積み上げるか、

並列か、直列か、

下降か、上昇か、

過去か、未来か。

 

意外と要素にしてみると、ワンピースって陰属性方向ばっかりに進む物語だったんだよな。

これは女性的な感性と言っていいと思うぞ・・・。

セーラームーンやティアムーンと同じ構造なのに、

それが少年誌の看板を何十年もやってるということに気がついて、今日、とても驚いている。

 

まあ、ある視点からするとそう見えたってだけで、これはひとつの解釈だ。

各作品の魅力はもちろんそれだけじゃないと思うので、その辺は今後の課題ということにさせてください。

 

っていうか、仲間集めと修行パートの両方があってバランスがいい物語のほうが多いと思うんだよな。普通はそうするじゃん。

でもモンスタータイトルになる漫画はそこが極端とかアンバランスだったいうのが面白いというか。

天才とナントカの紙一重みたいなもんなのかねえ?

 

週末の飲み会で語りたいような他愛ない雑談でしたww

 

 

 

 

 

それはそれとして、このご時世、

女性的とか男性的とか言ってるとどこからともなくポリコレ警察があらわれて袋叩きにされかねないので予防線を張っておこう。

ジェンダーで引っかかって内容が入ってこない人は、女性的→右脳的、男性的→左脳的に読み換えて下さい、それで意味は通じます。

ヒトの脳が、右脳と左脳を合わせてひとつの器として成立しているように、

女性性と男性性は人間性の両翼です。

ひとりの人間の内面でも、各々のバランスで双方を備えている。

翼は左右を合わせて羽ばたくことで、初めて飛翔できる。

陰陽や+-は性質であって優劣ではない。

海と空のどちらが優れているかなんて、ナンセンスな問いというものだ。そうでしょ?

 

 

 

ティアムーン帝国物語は、名前考え中さんのオススメでした。いつもありがとうございます。

 

がんべあさんのエニアグラムのブログ

https://gunber.hatenablog.com/

 

 

シャドーハウスを紹介する。ペルソナとシャドー。

シャドーハウス 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

自粛中に入れた週刊誌系アプリで色々読み漁ってて、自分的に傑作の予感がしたのがシャドーハウスだ。

ヤンジャンのアプリで一巻分無料、カラー版で読めるのでおすすめ。

https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.shueisha.youngjump.android&hl=ja

面白過ぎてコミックもまとめて買ってしまったので、ちょっと感想を書いておきたくなった。

 

パッと見た感じ、絵が可愛くて小物の描写が丁寧で、流行りモノっぽくてとっつきやすい。

女の子2人のかけ合いできらら系ぽくて、ローゼンメイデンとかメイドラゴンとかの、

メイドとか百合とかゴシックとかそのへんの雰囲気モノで、ちょっとホラー風味なのかな?

とか思いつつ読み進めると、このホラーというか、密室の謎がかなりガチであることが徐々にほのめかされていく演出がすごい巧い。

 

ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)小林さんちのメイドラゴン : 1 (アクションコミックス)エマ 7巻 (HARTA COMIX)

 

ゴシックロリータの例   百合主従の例    ディティールが繊細な例。

この辺が読める人にはおすすめしたい。

 

アンダーザローズも近いかもな。これはややマイナーな作品だが。

華やかな貴族の生活に、虐待やらトラウマやらの闇が見え隠れするというか。

Under the Rose (1) 冬の物語 (バーズコミックス デラックス)

でもシャドーハウスには重たい悲壮感はないな、キャラが明るい。

 

ほのぼのした主従の少女たちの日常系のような雰囲気でありつつ、

 

真っ黒な貴族の生態の謎とか、

主人公メイドちゃんの寝場所がまるで独房の棺桶で監禁されているに等しく、

就労環境がブラック企業を突き抜けてもはやダークファンタジーだというのに、

みんな社訓を声高らかに謳ってニコニコ、貴族のトップを神のごとく敬い畏れているとか、

うん・・・?ていう違和感の描写が積み重ねられていくんだけど、

三者視点がないから、なんか当然のことのような気がして読めてしまう。

「生き人形」で人形だから、人間じゃないから、この扱いでアリなのかな・・・?

この館、この世界ではこれが普通なのか・・・?とか、

その場の雰囲気でさも当たり前のことのようにされると、流されてしまって異常さに気がつけないってことがある、

そういう違和感を感じるような物語の構成が面白い。

記憶喪失の一人称ならではのレトリックだ。

 

4巻で一気に種明かしが進むので、

1、2巻は「え?あれ?でも可愛いしまあいっか・・・、え!?」

みたいに翻弄されることを楽しんで読むといい。

 

ここまでがお勧めのためのネタバレなしの文で、

以下は最新話までのネタバレあり。

 

 

 

コミックのオビに、約束のネバーランドの作者からのコメントがあったけど、納得の人選だ。

シャドーハウスは約束のネバーランド進撃の巨人とジャンルが近いことが明らかになる。

 

約束のネバーランド 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)進撃の巨人(13) (講談社コミックス)

 

 

外界から隔絶された小さな世界で、独自ルールが運用されている。

それに疑問をもつと、徐々に洗脳や搾取や支配の構造が明らかになる。

そしてそれに抗い、壁の外を目指す、自由を目指す。

そういう物語の構図だ。

 

ネバランや進撃では、第一話から平穏が壊れる衝撃展開がいわゆる漫画的なツカミだが、

シャドーハウスでは、箱庭の中の平穏パートが三巻分続いたってことだな。

 

「生き人形」は周辺の村から集められて、記憶を消された人間の子ども。

自分達は人形でシャドー家に尽くすことが喜びだと洗脳されている。

 

「シャドー家」真っ黒な貴族の正体は、モーフという擬態や模倣が得意な妖精だという。

 

真っ黒の影の妖精は子どものシルエットを写しとり、その子どもの名を名乗るシャドーになる。

そして代わりに子どもには生き人形としての愛称を与える。

湯バーバが千尋の名を奪い、千という簡略な名を与えたのとよく似た暗示の魔術だ。

 

子どもをコピーしたモーフ達もまた記憶のないところから、

生き人形の主人として振る舞い、シャドー家に尽くすような人格を習得していくよう仕向けられている。

 

妖精が人間の名を乗っ取り、顔を奪い、乗り移って一体化し、妖精の力と人間の姿の両方をもつ存在に仕立て上げいくシャドー家というシステムがあって、

それを構築し運用しているのが、偉大なるおじい様と呼ばれる黒幕、ラスボスのようだ。

 

なにその陰謀館www極黒wwなにが百合メイド日常モノだよww

 

三話までコテコテの魔法少女モノを装って、

マミさんの首をマミマミしたまどマギ以来の裏切られ感www

気持ちよく騙されたわ~。

 

4巻でサラッとこのカラクリが明らかになったあたりでは、

魅力的なキャラクターたちの紹介も済み、人物相関図ができていて、

1、2巻の不穏な謎が謎を呼ぶ雰囲気から、

仲間を募って洗脳解除と支配からの脱出、というフェイズの転換、方向性の転換がある。

1~3巻は箱庭のおままごと編、4巻からはプリズンブレイク編って感じになりそうだ。

 

進撃やネバランでは、壁を越え外界に出ることがイコール自由ではなくて、

外は外で弱者は淘汰される過酷な世界であると明らかになり、

壁の中はある一定の安全が保たれた基地だったってことでもあった。

 

それは、家庭や学校と社会の対比、その暗喩でもあると思う。

家庭や学校で子どもは庇護されると同時に様々なルールを押し付けられる。

窮屈で安全な檻から出れば、どこまでも広い社会や自然では適者生存の厳しい現実が待っているわけだ。

 

だからほんとは、壁の内と外、どちらが正しいってわけではないと思う。

幼い者には庇護が必要で、自立する者には自由が必要になる、そういうことなんだろう。

庇護と支配は表裏一体で、自由と危険は隣りあわせ。

メリットだけでもないし、デメリットだけでもない。

幼い頃は家庭で守られ教育されて育ち、成長して時が来れば社会に出て、自分の身を立てていく。

歳とともに相応の段階を経ていくこと。

ただ、蛹が蝶になるには、脱皮という試練を越えなくてはならないように、

変化の節目にはそれなりのイニシエーションがあって、精神的な危機をうまく越えていかないといけないんだな。

物語の主人公たちはそういう困難の越え方を教えてくれる。

反抗期、元服、思春期、成人式、入社式、結婚式、・・・、式、儀式、イニシエーションだ。

 

で、まあ。

シャドーハウスでは、まだ最終目標がどうなることなのかわかっていないけども、

多分これもシャドー家やおじい様を打倒する物語、というよりは、

メイドと主人、生き人形とシャドー、顔とシャドー、ペルソナとシャドー、

人格の裏表の正反合、円満な統合、みたいなことがメインなテーマになりそうだと思う。

 

顔、というのは、その人を示すアイコン、ということでもある。

人格、個性、アイデンティティ、ID、そういうものの象徴だ。

男女、年齢、人種、性格、来歴、顔には膨大な情報が凝縮されている。

 

怪しい飲み物とスローガンの斉唱で洗脳されて、働き過ぎの睡眠不足で、従属の名で呼ばれて、

だんだんものを考えられなくなっていって、人格が摩耗すると、

顔を、存在をシャドーに明け渡すことになる、という設定はすごく面白いと思う。

ブラック企業やカルト宗教、毒親モラハラ配偶者の洗脳テクニックで人が壊れていく様子を彷彿とさせる。

 

作者の前作も、独創的な設定の影の生き物が出てきたけど、

シャドーハウスではより多くの暗喩を解釈できるようなものになっている。

千と千尋カオナシに近いような感触だ。

妖怪や妖精というか、人の心に巣くうなにかの象徴としてみると腑に落ちる。

 

主従のペアの性格を見ていると、

多分エニアグラムで結ばれるような、憧れや抑圧、裏の人格がシャドーになってるようだ。

 

影の妖精モーフが、子どものシルエットを鏡のように写しとるとき、

子どもの心、人格のベースも写しとる。

いきなり表人格を奪おうとすると、抵抗や衝突がおきるのか、

表人格の自覚するアイデンティティではなく、普段は隠れているサブ的な側面のほうを写しとることになるんだろう。

 

心理学的な意味で言うシャドー、抑圧された心、衝動、裏の人格が、シルエットの形代に入って実体化したようなものってことになる。

 

そう思って見てみると、

ローズマリーはおっとりしてて穏やかで、ぼんくらとも呼ばれている。

そのシャドーのマリーローズは、宝塚の男役のような、芝居がかったカッコイイ性格だ。

少女的な、こんな風になれたらなあって思っているような、憧れの人格って感じがする。

 

ミアは頭がいい、字も読めるし地図も書ける、弁も立つ、それで出しゃばりとも呼ばれている。

そのシャドーのサラは、ミアの私室や私物を監視し、ミアを棒でぶつという折檻をしている。DVヤバイ。

完璧主義者ほど鬱になりやすいというが、自罰傾向、脅迫神経症のような傾向に思える。

自分を追いこんで能力を伸ばす向上心でもあるけど、完璧でなくてはと自分を追い詰める心の在り方、それがシャドーにあらわれている気がする。

 

ショーンは感覚が鋭くて反抗的。自分なりの順位やルールの通りに動くタイプだ。

そのシャドーのジョンは、天真爛漫で感情に素直、深く考えず楽しむこと第一。

これはまあ、表と裏のそれなりのいい関係だろうか。

通常時はルール順守で視野が狭くなりがち、それで対応できない場面になったとき、楽しいほうを選ぶ、というような使い分けができれば柔軟で応用力のある人格と言えるだろう。

 

バービーは暴力的で威圧的、人にすぐあだ名をつける、責任感がある。

そのシャドーのバーバラは怒りっぽく、制御不能の衝動そのもののような、リビドーのようなシャドーだ。

強力なリビドーを制御するために、ペルソナもまた強靭な精神力、節制、支配の力を習得する。

名をつける、というのは観測したものを自分の世界観の中に配置する、支配の魔法でもある。パワフルで魔女的な人格だ。

 

ラムは、能力は高いけど内気。しかし問題は性格ではなくて、自分の人差し指にラミーという名をつけて会話し、イマジナリーフレンドにしていることだ。

それで、そのシャドーのシャーリーに割り振られるはずだった人格の容量みたいなものが分散してしまっている。

シャーリーはラムの裏人格を写すことができず、人格を得ることができず、霧散してしまう。

 

ラムとシャーリーの例から、

シャドーはイマジナリーフレンドとか、二重人格のようなものと解釈してもいいようだ。

マンガではよく、なにか選択に迷ったとき、頭上に天使の自分と悪魔の自分があらわれてどっちにすべきか言い争う比喩の手法とか、

色んな立場の自分が脳内会議をする比喩なんかがあるけど、

そういう風に、普段意識していなくても人は脳内に二つないし複数のアバターを持っているものではある。

プライベートの自分、公の場での自分、SNS用にちょい盛ってる自分、などなど。

複数の価値観をもち、複数の選択肢を想定することで、多様な状況に対応していくわけだ。

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干妹うまるちゃんの脳内会議。

ギャグアニメだがうまるも裏表が激しくて、いくつものペルソナを使い分けるキャラだ。

ある困難な状況にどのペルソナで対処すべきか、考える様子が可視化されてる。

 

宮崎駿アニメでもサツキとメイや、キキとジジ、キキとウルスラなど、一人の人間の裏表、色んな側面をキャラクターにわけて描く、ということはやっているわけで、

物語表現では結構よく使われる手法なのかもなー。

 

後はルウとルイーズ、リッキーとパトリック、残るメインキャラそれぞれがどういう裏表なのかも興味深いけど、ちょっと手に余るから置いておくw

 

で、そういう風に見ていくと、

やっぱり表人格のほうが有能というか、処理能力が高い傾向にあると思う。

あくまで裏は裏技的、サブ的なもので、

表ほど使い込まれて陶冶されたものではないんだな。

 

でも、主人公の主従ペア、エミリコとケイトではそれがどうも逆のような印象を受ける。

 

エミリコの性格が、ちょっとポジティブ過ぎて不自然というか。

なにごとも前向きにとらえ、親切で、無邪気に善意を信じる、ややアホの子だ。頭がお花畑と呼ばれる。

生き人形という設定がしっくりくるような、誰かがそう思い描いたような、プログラムしたような、理想的な善い子の性格な感じがする。

この性格が序盤のミスリードにもなってて巧いと思うわけだが。

 

そのシャドーのケイトは、理性的だけど怒りっぽくて、慎重で計算高い。疑りぶかい自分を恥じてもいる。有能でもある。反乱の意志を秘めている。

ケイトのほうがフツーの人間っぽいバランスの性格なんだよなー。

 

ということはこれは、素の人格を抑圧していた子ども、ということになるのではないだろうか。

 

親が不仲とか、困難な状況で育つ子どもは、

いわゆる子どもらしい振る舞いを演じて、両親の仲を取り持とうとしたり、周囲に愛されようとすることがある。

 

愛される子ども、というペルソナを作り上げて、それを被って生き抜こうとする。

より周到に子供らしさを演じるために思い込みを強めていくと、

ペルソナがあくまで対外的な仮面であることを忘れ、それが自分の生来のパーソナリティだと思い込む。

誰からも必要とされない素の自分は抑圧し、忘れる。

 

そういう子どもをコピーしたシャドーがケイトなんじゃないかな、と思う。

 

愛し愛される無邪気な子どもを常に演じていた少女がいて、

その抑圧されていた本来の人格を写しとったのがケイト・シャドー、そんな感じなら腑に落ちる。

 

表と裏、ペルソナとシャドー、ふたつの性格があって、

それが状況によって交互にあらわれるのが人間だが、

 

シャドーハウスでは、その二つの性格がどちらも体を持っていて、会話して、触れ合って、協力したり反発したりして、関係性を築いていくことができる。

 

ペルソナとシャドーが脳内会議を飛び出して、互いを知り、仲良くなることができる。

それは自分自身との対話ってことだ。

 

シャドーが生き人形の顔を奪うとか、

生き人形がシャドーの企みを打倒するとか、

 

どちらが優位か、どちらが主かという争いではなくて、

 

どちらもある存在の一側面であると知り、円満な統合、融和、完全な心へ至るメタファーと解釈できるような、そんな結末を見られるんじゃないかと期待している。

 

シャドーハウス、全10巻くらいでキレイにまとまってほしいな。楽しみだ。

 

 

しかし・・・。

ケイトはおじい様に対抗するため、まず仲間を集めようとするんだけど、

仲間を集めていくこと、人脈を築くことが自分の力を獲得してることになる、というのはどちらかというと女性的な発想だ。

セーラームーンとかティアムーンとか、仲間集めで進む、修行パートのない物語のパターン。

で、3巻かけて謎を仕込む、大掛かりな物語の構成を組むとか、

進撃やネバランのような、父権やシステム、上位者に抗うことで自分の世界や自我を確立しようというのは、どちらかというと男性的な発想だ。

 

シャドーハウスの作者、ソウマトウは男なのか?女なのか?

 

絵の線の細さ、レースや小物の丁寧さは女性っぽいけど、

作画に3Dモデルを使うっていう発想は男性っぽい。

 人間心理や人物相関の込み入った描写は女性的か。

 

まあ、7割方で女性かな~。と思いつつ、気になるんだよなww

男原作者と女作画者のチームのペンネームなのかもしれない。

 

 

シャドーハウス、おススメだ。

 

 

まどマギのコンプリートDVDやっす!流行ったから廉価になったんだな。欲しい。

 

週刊誌系アプリを読み漁ったなかでは、スパイファミリーもコミックを買った。面白い。

 

 

エニアグラムのブログ

がんべあの「ブレない」キャラクター&ストーリーの作り方

https://gunber.hatenablog.com/

ここのところずっとキャラクターの性格の裏表について考察されているので、

シャドーハウスを読んでて、あ、これも裏表なのかなと思いついた。

ありがとうございました。

 

うまるちゃんの記事の追加がありました。

https://gunber.hatenablog.com/entry/back_umaru#comment-26006613587435735

 そうそう〜!考えてみるとうまるちゃんは意外に闇深のキャラクターな気がしてきます。

記憶の連続性が途切れるほどではないけど、多重人格的な病み方をしている。

家庭環境がヤバそうです。

親の期待どおりのお嬢様を演じていた延長で、優等生、干妹、UMRなどのペルソナを生みだしていそう。

 

 

ニコニコ大百科、脳内会議のページ

https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%84%B3%E5%86%85%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 

 

 あと、ミアとエミリコは、元の名前の愛称や簡略でない名付けだが、

多分、もともとなにか人形やペットにそういう名前をつけていたんじゃないかと、

ラミーやパンちゃんを見てて思った。

館に来る前から、自分で縫ったぬいぐるみに名をつける子どもだったんだろう。

エミリーでもエンリコでもなく、エミリコっていうのはちょっと滑稽というか、性別を感じないマスコットっぽい音の名前だ。

ミア、は猫につけそうな名前。

ブログ一周年。瞑想とは。

はてブロからメールが来て気がついた。

そうかブログ開設して一年書いていたのか・・・。

時が経つのが早すぎて怖い。

 

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記念日に書くべきこと・・・、

初心に戻って何か書くっていってもなー。

そもそもが5ちゃんのスレッドの延長ではじめたブログだ。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1533929590/l50

まだ過去スレ見れるな。2018/8/11から、アニメや漫画について思ったことを書きはじめて、スレは今4つめがのんびり進行中。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1566495487/l50

今見ると色々恥ずかしいような、何も変わっていないようなw

怠け者の自分が時々飽きつつも書き続けられたのは、やっぱり面白いと言ってくれる人がいて励みになったからだ。

月並みだが真実だと身を以て知った。ありがとうございました。

自分独りで完結したい、完成したいと願っても、まあそれはなかなか。

人間という器が基本的にそういうつくりじゃないんだな。

 

周囲の人間関係と、家系と、民族と、国家と、大きな総体の一部であることは変えられなくて、

持って生まれた性質と、育った環境と、受け取ってきたことと、選んできたことと、積み重なって、アイデンティティが形成されている。

 

天気の子で須賀が「大人になると大事なものの順番を入れ替えられなくなる」と言ってたけど、そうだ。

 

成長して、できることが増えて、見識が広がって、欲したものを獲得して、思い出ができて、世界が広がるほどに、

いつの間にか、なぜか、できないことも多くなっていくんだよな。

昨日の繰り返しの今日を選ぶことしかできなくなる。

積み重ねてきたもの、得てきたものを失うことを恐れるからだ。守りに入る。

 

生きるということは変わっていくことなのに、

捨てられない思い込みでがんじがらめになることは、苦しい。

だから時々、壊してみること、手放してみること、新しくしてみることが必要になる。

 

須賀が窓を開けて、部屋を水浸しにしたのは、多分、リセットするためだ。

死んだ妻のものと、娘のものを全部そのままにして、思い出にどっぷり浸って暮らしているから、変われなくて苦しむ。

幸せだったころのことを思い出して辛くなる、過去をリピートして今を生きられなくなってしまう。

だから、すべてを水に流すために、窓を開けた。

荒療治だけど、それで新しいオフィスを借りて従業員を雇うことができる。新しい循環を始められる。

 

ま、それはひとつの比喩だ。なにも部屋を水浸しにしなくても、

自分の内にある、自分を苦しめる思い込みを手放すことはできる。

 

親に教わったこと、教師に言われたこと、恋人に言われたこと、

傷ついたこと、許せないこと、失敗したこと、成功したこと、

常識、信条、理想、正義、階級、劣等感、ジェンダー、喪失の痛み、なにかを愛したこと。

数限りなくある、「こうあるべきだ」という思い込みのすべて、

かつて大事だった手放したくない想いであっても、

繰り返し自分を縛るものになり果ててしまった過去のすべて、記憶すべてを、来たところに還す。

 

それで今を生きることができるようになる。自由と自在の境地へ至り、

いつでも新しいインスピレーションのままに心と体が動くようになる。

 

・・・っていう話を、まじで延々としている。

今回はそこのところ、もう少し順を追って書いておこう。

自分なりの瞑想導入の忘備録だ。

 

まず場を整える。慣れればいつでもどこでも瞬間的にできるようになるはずだが、

まずは、そう。それなりにセッティングがあるといい。

整えた場は、意識を変性させる装置の役割がある。

鳥居や注連縄をくぐれば神域となるように、

講堂や教室に入れば学びの気持ちとなるように、

壇上や舞台に上れば違う自分を演じることができるように、

祭りの会場やライブハウスに入れば非日常を体験する高揚があるように、

 

普段の自分、感情の浮き沈みに苦しみ惑う自分自身から、遠ざかる場というものを用意する。

昨今の自粛続きで、子どものいる家庭で室内にテントを張り、一人になって気持ちを落ち着ける場所にするっていうアイデアがあるらしいけど、素晴らしいと思う。

ひと昔の家なら仏間とか縁側の廊下とか、階段下とか物置部屋とか、押し入れの布団の上とか、

子どもが一人になれる、秘密基地にできる、あまり使われてない場所っていくらでもあったものだけど。

今時の家はコンパクトかつ機能的で、デッドスペース、余白の場所、あそびの場所がないっちゃないからなあ。

 

子どもにも、大人にも、そういう場所はあったほうがいい。マイ・サンクチュアリだ。

自分は主に風呂がその場所。あとは猫部屋もそう。

スマホを持ち込まない、暗くて狭めの空間だ。風呂は水に満ちているのもいい。

静かで、ほの明るく、区切られて狭く、温かく、丸く、水に満ちた場、胎内環境に似た場ほど、安らぎを得やすくて、瞑想導入が捗るだろう。

広々して自然がある場所もまた別の意味でいいけどね。サウナとかも悪くない。

あとWi-Fiは切る。ノイズを遠ざける。

 

軽く体操なんかしてから、姿勢を整える。

立っても座ってもいいけど、背筋が反ってたり曲がっていたりするとうまくない。

まず、まっすぐに、正しい位置に人体を保持できる人って意外と少ないんだ。

すぐ足を組んだり、どこかに寄っかかったり、頬杖ついたり、スマホ見る前傾姿勢になってて、

自分の体の正中のバランスを意識したことすらなかったりする。

 

ま、意識してないだけ、使ってないだけだから、訓練すれば出来るようになるだろう。

右手ブラブラさせて、左手ブラブラさせて、両手ブラブラさせて、というふうに、

体の各部位を、左右交互、上下交互、そして両方、全体で動かす、みたいな体操の仕方で、だんだん力を抜いたときに中央値が定まってくる感覚が解ってくる。

 

まっすぐに姿勢が定まったら、

自分の身体を意識する、自分の精神を意識する。

自分の周囲の空間を意識する、グーグルアースみたいに視点をひいて、

自分がいる地域を意識して、属してる集団を意識して、地球を意識して、銀河を意識する。

神々のいる世界を意識して、

物質世界と精神世界を越えて、

宇宙を運行する様々な法則を越える、そう意識する。

 


宇宙の大きさを体感できる動画

こんな感じが参考になる。

 

どんどん大きくフォーカスしてもいいし、

どんどん小さくフォーカスする方法もある。

 

身体は臓器の集合であり、臓器は細胞の集合であり、細胞はミトコンドリアとか細胞核とかゴルジ体とかこまごましたものの集まりであり、細胞核のなかのDNAはタンパク質の分子の集合であり、分子は原子の集合で、原子は原子核と電子で構成されていて、

観測し得る最小単位は量子になり、粒の性質と波の性質になる。

 

自分が意識し得る、認識し得る、観測し得るすべてを心で捉えたら、

その有限の世界をひっくりかえす。

ネガとポジを入れ替えるようにして、有限を内包する、無限について想う。

すべてが果てるところ、時間も空間も、形も意味も指向性も尽き果てて、粒と波は釣り合って鎮まり、どこまでも凪いでいる。

0の、無限の、愛の世界、色即是空の世界、大日如来の世界、アルケーの世界、創造神が「光あれ」とコマンドする前の世界。

観測の視点すら持てず、言葉では切り取れない世界。

上も下もない霧の中のような、朝靄のような、静かな湖面のような、そんな感じだろうか。

それを感じている状態をつくる。

脳波を計れば、シータ波が出てる状態だろう。瞑想の成功だ。

 

その状態に至ることが、いつでもできるように日々訓練する。

一回に20分くらいが集中の限界かなー。

それ以上ハマるときは、ビタミンとかミネラルとか水分糖分とか、脳に適度な補給をする。

あとはその日ごとにクリーニングすべきテーマ、リリースすべきテーマを持って入るといい。

苦しいこと、辛いこと、ムカついたこと、許せないこと、

頭のなかをぐるぐるしてたうるさいやつを、短いキーワードにまとめておいて、

瞑想状態に入れたところで、そいつを取り出し、ほどく。ひっくりかえす。そうイメージする。

もつれた想いがほどけて、許され、溶け消えるのを観測する。

何日か、何ヶ月か、表層の問題を手放し続けるうちに、自分でも気がついていなかった根っこの問題が浮かんでくるだろう。

ま、だいたいは幼少期に親からインストールした行動様式とか抑圧、身近な人の喪失とか、そういうことじゃないかな。

普段は忘れてたこと、見ないようにしていたことがほとんどだ。

 

手放す準備なしに見ないようにしていたものを見ようとすると、強烈な抵抗が起きるので、その人なりのタイミングが整うまで待つことが肝要だ。

 

見たくない聞きたくない、認めたくない痛みに触れたくないという抵抗はマジで強烈で、

怒り、拒否し、どんな無茶な理屈でもこねくり出して、心を閉ざし、目を潰し耳を潰す。そういう厄介なことが起きるので、

ほんっと待つのが肝要で寛容。(自戒のため二回言いました。)

 

ま、一生待ってもその時が来なかったりするんだろうけどね・・・。

それもまた善哉。

たった百年で死に変わり生まれ変わりするサイクルの短さは、変われなくなることを強制的に変えてくれる親切な設計だ。

リセットして来世でやりなおしてくれいww

 

しかしまあ、仏教だと輪廻転生からの解脱、生きて死んで六道をぐるぐる巡るサイクルから解き放たれること、悟って涅槃へ至ることが目標なわけだからして。

 

いつかは悟らないといけないなら、

いつでも悟りを開いていいわけで。

今、この時、涅槃へ至ってもいい、

二千年も前からお釈迦さまはそうしなさいよと勧めてくれていたわけで。

つーか二千年も先延ばしにしてたんだから、そろそろ人類まとめて悟るべきじゃね?

 

それで瞑想を続けるうちに、自分の中の思い込みを手放すことができてきたら、

もっと色んなものを手放してみる。

有限の事象をほどき、無限へ還す。意識の中でフッと消してみる。

家族や親類を手放してみる。体質や因縁や代々の家系の質、遺伝子や模倣子を手放してみる。

民族集団に属していることを手放してみる。伝統や習俗や民族性、負の歴史を手放してみる。

国家を手放してみる。システム、人種差や言語、宗教や神話を手放してみる。

人類という種を手放し、地球、太陽、銀河、星々の巡りを手放し、時間と空間を手放す。

最後に、やはり観測している自分という視点が残る。それを消してみる。

肉体もなく、記憶もなく、名もなく、命もない。

 

多分どこかで抵抗があるだろう。

怖いとか死にたくないとか、そんなことできるわけない、していいわけないとか、

恐怖か疑いのどちらかかな。

そしたら、その恐怖や疑いをまた手放す。

怖くなくなるまで、ああそうか大丈夫だ、と思えるまで。

 

自分の存在の底まで辿りつくと、自分という存在の最初の願い、最初の指向性、魂ってなにかってことになる。

 

言語化しにくいけど、実にシンプルな指向って感じがするものだ。

 

生きたい、生き続けたい、認識を広げ、大きなものへ向かいたい。

 

そんくらいの感じで、何かを目指して駆動している。

スケールの大小はあれど、それがこの有限の世界のすべての存在を保ち、発展させている指向性の感覚でもある。

それが無限からエネルギーを汲みあげている最初の命令、最初の奇跡だ。

 

その素晴らしさを味わいつつ、やはり手放す。

自分という存在の尽きるところ、宇宙の尽き果てるところが、

恐ろしいところでも寂しいところでもなく、

調和して安らぎに満ちたところであると、そういう感覚を得る。

 

それが、自分の源泉になる。

いつでも自分のまんなかに、それがあると知る。

汲めども尽きぬ甘露の泉がある。

だからなにも恐れることなく、自在に生きられる。

インスピレーションの訪れるまま、

心の示すままに、

選び、行い、結果を受け止めることができる。

 

「僕たちは大丈夫だ」って、そういうことなんだよ。

天気の子の小説版には陽菜の祈りの感覚にそれがある。肉体と精神の感覚を入れ替え、自分と世界の境界が溶け、一体になるのなら、それが解る。新海監督はそれを識っている。

別に天気の子だけじゃなくて、古今東西の優れた物語はいつでもそれを示そうとしてて、

物語だけじゃなくて、詩でも音楽でも絵でも、芸術の求めてるところはそういうもので、

芸術だけじゃなくて、武道でもスポーツでも料理でも仕事でもブログでも、どんなものでも自分なりの道として追求していけば、そういう境地を得ていける。

 

すべては同じところからやってきて、いつか同じ頂へ至る。

 

すべては虚しい仮の宿で、ゆえにすべては愛しき我が宿だ。

 

自分はずっと、そういうことを書き続けているつもりだ。

言葉に尽くせないと知りながら、言葉に変えることで少しづつ認識は進む。

誰かが自分もそう思うよって言葉を返してくれることもある。

そういう誰かと一緒に瞑想すると、また効率がハネ上がったりするからな。

脳はひとつでも優秀なユニットだけど、

そもそもネットワークにしてくのが本来の仕様なんだよなあ。

スタンドアローンで使えるのは機能の一部だ。どうもそんな感じ。

もういっそ子どもとか幼児と瞑想するのもアリかもしれんね。

むしろ若い者から真摯に学ばせてもらうべきなのかも。

 

ま、いつかそんな時が来るまで研鑽を続けよう。

一年でも二年でももっとでも、生きているなら変わり続けることを受け入れないとしゃーない。

 MU3アクセント壁紙 空と海 雲 写真 ウォールステッカー ポスター

天気の子を解釈する5 相互理解が力になる。

今週のお題「遠くへ行きたい」お題「#おうち時間f:id:philia0:20200528014455j:plain

天気の子、DVDで観なおした。

このタイトルコールの雲が渦巻く絵、空に開いた穴って感じがとても好きだ。

異界、彼岸、隣り合う世界、近くて遠い世界へのゲートって感じがする。

空、という字がそもそも、穴と工の組み合わせでできてるしね。

工、は点と点を結ぶ線、どこかに繋がる道、トンネルみたいな意味だ。

 

久しぶりに観たけど、

高精細の映像、大量の情報をテーマソングにのせて流しこんでくる新海誠メソッドはすごく気持ちいい。音楽PVみたいな、現代的な感性だ。

 

順を追って考える前に、言語や論理の左脳の情報処理が追いつく前に、

音楽で右脳を活性化させて、ギリギリ理解できるかできないかくらいのスピードで、

とにかくイメージを脳に流しこんじゃう感じっていうか?集中を要求されるんだよな。

サブリミナルまではいかないけど、それでもオーバフロー感があってイイ。

情報があふれてなにも考えられない、というのは快感なのだ。

 

これから梅雨っていう、蒸し暑さと雨の時期に見ると没入感もひとしお。

 

さて、天気の子についてはもう結構書けるだけ書いたって気もするんだけど、

なにか書かないとDVDを買った甲斐がないというものw

 

そういえば、須賀の嫁で萌花の母、明日花が晴れ女だったのでは、という考察があるらしい。

陽菜と同じに日、太陽、晴れをあらわす字の入った名前だし、若くして亡くなったのは陽菜の母と一緒ではあり、どちらも死因の描写は濁されている。

萌花にも小さく日の字があり、雨に体調を左右されるあたり晴れ女の素質がありそうでコワイが。

が、

いやそれはどうなのか。嫁が晴れ女だったとうすうす察してたうえで、人柱を容認する発言してたら須賀の性格が鬼畜すぎる気もする。

ただ、警察署から逃げた帆高の行き先、代々木の廃ビルをなんで須賀が知ってたのかはそれで説明がつく気もする。

嫁から、鳥居のことを聞いていたんだろうか、とか?

いや、まあ、ムーの取材で怪しい噂には詳しいだろうから、天気の巫女と代々木の廃ビルの関連について心当たりがあっただけかもしれない。

陽菜が空に昇っていく夢をみて、夢の場所に見当がついたってことでも辻褄はあう。

 

それより、ホテルでバスローブから抜けるように消えた陽菜が、その後の場面でいつもの服に靴まで履いてたことの辻褄のほうが謎。

ホテルのドア前に長靴あるしなぁ。どうなってんだ。まぁいいけど。

 

で、代々木の廃ビルの鳥居には、精霊馬、キュウリの馬とナスの牛の瑞々しいやつが毎回お供えされているので、誰かが頻繁に訪れていることを思わせる。

お盆の時期、地獄の釜の蓋も開く時期、亡くなった人の魂を乗せて早く来てほしいから馬、ゆっくり帰ってほしいから牛、という彼岸と此岸を行き来する乗り物が精霊馬だ。

多分、あれが供えられてなかったり、萎びてたりしたら、帆高は彼岸に行けなかったんじゃないか?

あれは地味だけど、彼岸へ渡る必須アイテムな気がする。さす新海。オカルト方面ぬかりなし。

雑草とかはほったらかしでも、あれだけはちゃんと手入れされているわけだ。

 

で、陽菜や陽菜の母のほかにもああいう鳥居をくぐった天気の巫女、人柱は複数いるんだろうな。

占いおばば(CV野沢雅子w)もガイアのホメオスタシスで晴れ女が生まれやすくなってるとか言ってたし、

東京を守る大量の人柱、とかいうムーの見出しもあった。

彼岸の空にいる水の魚たちが、今までの人柱達だったとしたら、関東周辺地域の800年分にしても相当の数だ。

 

ただ、陽菜の母は晴れ女の代償が衰弱からの病死のようなのに、

陽菜は体が透けて浮き上がり、生身ごと彼岸へ神隠しになって、

多くの人が同じ夢を見て、夏に雪が降る観測史上最大の異常気象が一気に晴れわたるという事象の大きさになったのはなんでかっていうと、

 

まあ、そりゃあんだけ派手に晴れ女ビジネスを展開すればそうなるわな。

 

凪センパイが「みんなお前のせいじゃんか!姉ちゃんを返せよ!」と仰るとおり、

帆高のプロデュースのせいですともww

 

より多くの人々の想いを汲みあげ、彼岸と此岸を繋げれば繋げるほど、天と人をつなぐ細い糸は太くなり、効果も反動や代償もまた大きくなるというだけだ。

まぁ、あちらの存在に近づくとか、彼岸の存在に親しむこと自体はそんなに悲惨なことでもないけど。他作品ならそれを目指すキャラもいるようなことで。

 

代償、代償かー。

やっぱり一人娘の体調と、知り合い程度の女の子の命を天秤にかけたら、

愛娘をとるっていう心情もあるのかもしれない。

たとえそれが愛妻を死においやったシステムでも、容認し、維持することに同意する、か…。

あまり須賀を嫌いになりたくないのだがw

「人柱ひとりで元のとおりに戻るってんなら歓迎だ。てか皆そうだろ。」

「誰かが何かの犠牲になってそれで回るのが社会ってもんだ。損な役割を背負っちまう人間は必ずいるんだよ、普段は見えてないだけでさ」(小説版)

そうだな。それが、この世界の大人たちの態度だ。

過労死が出ようが自殺が出ようが、ブラック企業はなくならない。

途上国の安い労働力、非正規雇用、格差を使って利潤を追求し、現場の福利厚生など知りもしない。

この社会でただ生活しているだけで、弱者を踏みつけにしていることに、同意しているに等しい。

誰も彼も、自分もだ。

 

陽菜の青い石の首飾りは、母の腕にあったものと同じもの、形見だ。

彼岸の空で、帆高の指輪は落ちたのに首の石は落ちなかったこと、

彼岸から帰ってきた鳥居で、首飾りが割れていること、

あの石は、晴れ女であることを示すアイテムで、陽菜の母も晴れ女だったとして、

 

じゃあ、帆高の「晴れ女と引き換えにこの空は晴れたんだ、皆なにも知らないで、こんなのってないよ」とか「皆なにも知らないで、知らないふりして!」

っていう、皆の利益の代償を引き受けてるのに知らん顔されて、自分の大事な人が失われる痛みの言葉は、

母を失った陽菜が、叫びたかった気持ちでもあるよな。

 

母の死後、陽菜は弟と二人で生活する、働いて炊事もして、母の役を果たそうとする。

「私たち誰にも迷惑かけてません!」「私たち、 ばらばらにされちゃう。」

児相にも警察にも頼ろうとしない。大人に助けを求めない。大人をまったく信じていない。

児相がくるなら夜逃げも辞さない、断固拒否の姿勢だ。

なんだってそんなに頑なに、大人に心を開かないのかとも思ってたけど、

それは多分、皆の利益の犠牲になって死ぬ母を、誰も助けてはくれなかったのを見たからだ。

 

皆の利益には、陽菜と凪、子どもたちの利益も含まれている。

子どもの衣食住を整えて、学校に行かせて、習い事をさせるために、

母親がひとりでどれだけ頑張らなくてはいけなかったのか、陽菜は見ただろう。

 

母の代わりに弟を養おうという、中学生には荷の重い決意をしたのは、

自分が暮らしていくために母を犠牲にしてしまったという、自責と贖罪の気持ちもあってのことかもしれない。

そして、凪と支えあって一年暮らして、

晴れ女ビジネスで、尽くした人に笑顔になってもらう嬉しい気持ちを知った。

 

陽菜は、母親業と晴れ女、母のしたことを追体験して、

帆高は、母を失った陽菜の気持ちを追体験している。

 

母の気持ちを身を以て知った陽菜と、

陽菜の気持ちを身を以て知った帆高だったから、

 

「自分のために願って」

は彼岸から人柱を連れ戻す、力ある言葉になったのかもなあ。

心が、認識の深さが、言葉に力を与えるんだ。

 

帆高の答えは、きっと陽菜が母親に言ってあげたかった答えでもある。

 

「ただ、もう一度あの人に会いたいんだ」これもそうか。陽菜の願いでもある。

彼岸の空で、陽菜は水の魚になった母と会えたのかもしれない。

迎え火をまたいで、帆高が来るまであの場所で母に守ってもらっていたのかもしれない。

 

帆高が彼岸から人柱を連れ帰ると、雲と竜、800年分溜め込んでた雨が3年かけて降ってくるので、晴れ女システムは一度ご破算になったと思われる。

 

陽菜以外の天気の巫女たちも、空と繋がる力を失ったのだろうか?

 

それとも、また誰かが代償を払って利益を得る旧体制を繰り返すのだろうか?

 

もう、誰の犠牲にもならなくていいことに、

誰のせいにもしなくていいことに、気がつけるかどうかだ。

 

自分より弱い誰かにツケを押しつけて楽をして、

辛いこと苦しいことは自分より強い何かのせいにする、

他責の世界でうわべだけの繁栄を繰り返すより、

 

雨の降り続く世界でも、疫病のはびこる世界でもいい、

自分のために願って、自分の心で決めた、

その結果の世界を引き受けて、生きていたいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ・・・・、

さて、解釈も五本目となると、やや強引な感じが否めなくもなくもなかったな・・・。

今後DVD周回して気がついたことがあったら、余程でないかぎりこの記事に追記で済まそうと思う。

 

今までの記事のなかでは、手錠の意味がムスビで座標だと解釈できた2本目と、

日本神話の照応を読み解けた4本目が書いていて面白かった。

 

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はい早速追記。

 

最近こちらのブログ

https://gunber.hatenablog.com/

がんべあの「ブレない」キャラクター&ストーリーの作り方、で

キャラクターには表の顔と裏の顔があるっていうテーマをずっとやってるんだけど、

それで帆高の性格に合点がいった。

 

助けてもらったお礼に食事をふるまったり、

未成年に酒をすすめる大人をたしなめ、ジュースに取り換えたり、

訪問先に手土産を用意したり、

バイクに乗るときは非常時でも必ずヘルメットを着用したり、

誰に言われなくてもルールを守る、律儀な性格の、無害そうな少年の見た目通りの表の顔と、

 

衝動的に家出して、

衝動的に拾った銃をカバンに突っ込んで、

衝動的にその銃をぶっぱなし、

衝動的に警察から脱走してチャリをパクろうとする、

アナーキーで危険な性格の、裏の顔の帆高がいるんだ。

 

その二面性があるから、

会いたいあまりに800年モノのシステムをぶっ壊して、想い人をあの世から奪還するのに、

そこから一変して3年も全然まったく陽菜と連絡とってない、なんてことになるんだ。

 

保護観察期間だからと律儀に自粛して、ルールを破ったこと、世界を変えたことを律儀に反省してたんだろうね。3年も!

…、その性格、ヒくわ〜。

殉教者とテロリストが同居してる危うさだわ~。ないわ~。

 

エニアグラム分析でいうと、1完璧主義者と6堅実家の裏表・・・か??

そこはまったく自信ないけど、がんべあさんありがとうございました。

 

追記

がんべあさんによると、

4芸術家と9調停者の裏表っぽいとのこと。

 

エニアグラムはちょっと手に負えないので、(^q^)

とりあえずシャドーとペルソナぐらいの理解にとどめておけばいいことに気がついた。

律儀なイイ子のペルソナ帆高と、アナーキーのシャドー帆高がいて、

状況によってどちらかが対処してるんだっていう。

まあ、ちょっと心理学上の本来の意味と違うけどなw

 

更に追記、

廃ビル屋上の鳥居、雑草は手入れされてないのに、

毎回キュウリの馬とナスの牛の精霊馬がみずみずしくお供えされてて、

それはなんでかっていうと、精霊馬は彼岸へ渡る乗り物だから、アレがないと帆高は空の上に行けないんだ、と書き足してて思いついた。

「あの煙に乗って、あの人は向こう岸から帰ってくるんだよ」立花富美おばあちゃんのセリフと迎え火の煙もそうか。

煙も地上と空、彼岸と此岸を繋ぐ通路になり得るのか。なるほど。

廃ビルで帆高が空に向けて一発、銃を撃った。

銃を撃てば、硝煙が上がる。

その煙を辿って、帆高は彼岸へ行けたわけでもあるな。

 

鳥居をくぐった次の瞬間、空の上にワープしてるのは突飛な場面転換のようで、

鳥居が出入りする扉で、煙が道で、精霊馬に乗っていける。

さりげない舞台装置、伏線があるんだなぁ。

 

煙が地上から上空への通路なら、

雲間から差す光、光の水溜りのようだと言われたエンジェルラダーは、上空から地上への通路だなー。

陽菜が冒頭で彼岸の空へジャンプするときも、扉、通路、乗り物の条件が揃っている。

 

ムーを堂々と出してくるあたり、新海監督は相当オカルトに自信あるよな。

爽やかで切ない青春恋愛映画に、どうオカルトネタを潜ませてくるのか今後とも楽しみ。

いっそオカルト全振りの映画も見てみたいが、

星を追う子どもはイマイチだったから、スパイス程度が新海監督の適量なんだろうな。

戦う限り、悪が勝つ。セーラームーンを解釈する。

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YouTubeセーラームーンが期間限定無料。もう懐かしくて懐かしくて。

https://youtu.be/22qS-xw57lg

 

まあ、まだ最初のシリーズの途中だし解釈というのもなんだけど。

昔々リアルタイムで見てた時の記憶ともごっちゃにしつつ、少し書いてみたいことがある。

今、新型コロナウイルス関連で各種陰謀論SNSとかで活発に拡散されててなー。

まあ、目に入らない人はまだその時でないんだろうし、

その真偽を議論するのもとりあえずおいといて、

セーラームーン見てた世代には、そういう支配する悪みたいなネガティブなものに出会ったとき、どんな心で臨めばいいのか。

潜在意識に答えがインストールされている。

それを解凍して使えるアプリにしていきたいっていうかね。

 

セーラームーンの初期の敵対存在は、ダークキングダムという悪の組織だ。

姿の見えない「大いなる支配者」に人間どものエナジーを捧げるべく、毎回悪事を行う。

その悪事というのがちょいちょい風刺というか、社会派な問題提起にもなっていた。

後先考えないで流行りのペットを買っちゃう問題とか、

時間に追われて心の余裕がなくなってる問題とか、

過剰なダイエットへ誘導する風潮問題とか、

とにかく子供をいい学校に入れようという偏った教育問題とか、

憩いの場の自然をビル街に都市開発しちゃおう問題とか、

メディアにサブリミナルを仕込んで洗脳しちゃおうとか、

25年経っても共感できる、古びてないテーマばかりで、

その先見性を称えるべきか、解決に至らなかった年月を嘆くべきかというところだが。

 

毎回、一人のイケメン幹部とその部下の妖魔が悪の企みを実行するんだけど、

その作戦を実行する時に彼らがやることといえば、変装とか、なりすましとか、テレビやイベントで広告をうつとか、開店セールで値引き大売り出しとか、そういうプロモーション的なことが多い。情報を操って人を集めて熱狂させる。

妖術といわれるものを使うことがあってもそれは割と簡単な催眠や思考誘導のようなもので、

もともとそこにあるものを火種に、人々の愚かさにつけこんで、少しだけ助長する。

それで人間達の、コントロールを外れた興奮状態っていうか恐慌状態っていうか、そういうエナジーを回収する。

 

セーラームーン達に企みが看破されると、妖魔が正体をあらわし直接的な武力の妖術で襲ってくる。

主人公のセーラームーンは、いたって平和に育ってきた中学生女子なので、恐ろしい顔の妖魔に襲われると、恐ろしくて泣き出してしまったりするw

まあ、戦闘訓練どころかろくに喧嘩もしたことないような女の子としては当然のリアクションだと思う。

セーラームーンは変身したからといって、武器も鎧も持ってない。代わりに戦ってくれる何かが乗り移るわけでもないのだ。

 

では、どうやって敵と相対するのか。

 

セーラームーンを解釈するとき特筆すべきだと思うのは、戦闘になった妖魔たちを殴る蹴るみたいな直接的な暴力の描写がほとんどないことだ。

 

毎回毎回変身バンクや名乗りをあげるやら、決めポーズや決め台詞のターンばかりが長くて、

「ムーン ティアラ アクション!」で、ティアラ(武器でなく装身具)を投げるっていうか、ほとんど舞踊の型みたいな一連のポーズの動作をとる。

するとキラキラしたエフェクトの画面になって、次の場面では妖魔が砂とか灰になって崩れる。

 

ティアラが妖魔の体にぶつかってガツーンで血がブシャーでグエー、苦しくて痛そう、みたいな描写が一切ないのだ。

 

もう少し後の展開になるが、敵が毎回「リフレーッシュ!」と叫んで人間に戻る、というお約束が自分としては非常に印象に残っている。

リフレッシュ、気分を一新するとか、爽やかになる、と言って退場するというのは、どういうことなのか。

 

火力担当のマーズやジュピターが加わって、火や雷で妖魔の力を削ぐターンもあるけど、

だいたい最後は「今よ!セーラームーン!」でキラキラ~のサラサラ~で終わる。

 

セーラームーンの技は、基本的に浄化とか癒しに属するものという設定になってる。

「ムーン ヒーリング エスカレーション」とかそんな技もあったな。

癒しで昇華する、みたいな意味だ。

 

女の子のための変身ヒーローとしてデザインされてるので、そういう感じなんだろうけど、

後継作品のプリキュアとかだと殴る蹴るの肉弾戦要素があったりするらしい。

魔法少女ものでも結構、ファンシーながらも弓や剣などの武器をもってたりしてな。

 

主人公の属性が浄化と癒しっていうのはやっぱり今でも通用する新しさだと思う。

 

RPGでいえば僧侶、ヒーラーが主人公なのだ。

普通はパーティーを率いる勇者ってのは剣士や戦士の前衛職だ。

騎士や銃士、魔法使いや召喚士が主人公ってパターンの作品もまあまあ思い当たるけど、

ヒーラー、僧はな~。アンデットにしか攻撃力がないイメージだ。なんかあったっけ・・・?

 

なんでセーラームーンが戦う力に乏しいのかっていうと、

全編通しての前世っていう設定が重要になってくる。

 

どのくらいの時空の隔たりがあるのかはわからないが、

かつてシルバーミレニアムという、銀河の星々の王国があったという。

月にも地球にも他の星々にも、人類の祖になった種族が住んでたってのはSF的な設定でもあるね。

 

そこの女王、クイン セレニティというのがセーラームーンの前世だ。

戦士でなく女王。

戦う職の人じゃなくて、守られる貴人のほうで、斎王、祭祀の王、巫女姫みたいな存在だったわけだ。

であれば確かに、持っているスキルは、なにか宣言するとか宣誓するとか、

古式の型に則った所作で、祓い清め、鎮める儀式をとりおこなう、古来より王の役目とはそういうものだろうなって感じがする。

天皇陛下の公務みたいな感じだ。慰問するとかもそうかな。

 

毎回毎回「愛と正義のセーラー服美少女戦士」とか名乗りをあげて何々が不届きだから「月に代わっておしおきよ!」でくるくるポーズとってキラキラするのも、なんていうか、一種の、宣誓と祓い清めの型の一環なのだ。使いまわしで作画コストを稼いでいるだけではない。

 

妖魔たちは、あの名乗りを聞いちゃってる時点でもう浄化の手筈に引き込まれている、ハマってると言える。

「あらわれたな!セーラームーン!」とか言っている場合ではないのだww

 

さて、そろそろ本題に入ろう。

愛と正義の戦士、という自称なわけだが。

正義の戦士はよくわかるけど、

愛の戦士、っていう言葉には矛盾を感じないだろうか?

キューティーハニーとかも愛の戦士っていう自称だけど。

 

あえて強調して言ってみれば、

愛するってことは肯定し受け容れることで、

戦うっていうのは否定し排除しようとすることだ。

ベクトルが逆の言葉をくっつけている。

 

たしかに、愛のために戦わなくてはならないシチュエーションはあるだろう。

でも、相反するふたつのベクトルを同時にもつと、コンフリクト、葛藤がおきる。

 

愛の戦士として、敵対するものを排除せざるを得ないが、

だからと言って愛の名のもとに人語を解する相手をボッコボコにするのはマズイ。

ほどほどに、あまり痛くも苦しくもないように、自分より強大な敵であっても、相手が撤退する加減で、

 

・・・そんな複雑微妙なことを考えていては、そっちに処理を割いてしまってパフォーマンスが落ちるのではないか?

 

ダークキングダムのみなさんの思考はいたってシンプルだ。

シンプルであればあるほど全力投球できる。

ただ支配するためだけに、壊し、奪い、搾取し、嘘を使い、催眠をかけ、なにもかも踏みにじって平気だ。

幹部ジェダイトは部下キュレネに「お前の代わりはいくらでもいる」と言い、

上司クインベリルに「お前の代わりはいくらでもいる」同じことを言われて氷漬けにされる。

同僚とか仲間にしても基本そんなものだ。使い捨てにして憚らない。

 

自分達は、古今東西の勧善懲悪の物語を見過ぎて、

戦いの中で成長していく主人公たちの活躍を見続けて、

敵にトドメをささない優しい主人公に、敵がほだされるというお約束の展開を見飽きて、

「必ず最後に愛が勝つ」という図式に疑問をもつこともないわけだけど、

 

でも、勝つとか負けるとか、つまり戦うってこと、

対立し、闘争し、相手を傷つけるっていう行動様式に。戦うというプログラムに親和性が高いのは、

 

愛の戦士と、悪の組織、本当はどっちなんだろう。

 

あらためて考えてみると、どうも自分としては、

悪の組織のほうが常に、戦うことにかけては長けていると思うようになった。

好きこそものの上手なれ、だ。

よく使われ、よく手入れされた能力ほど伸びていく。

 

争うことを好まず平和な日常を愛しているものと、

常日頃から支配のためのプランを練っているもの、

戦いに必要な能力を磨いているのはどちらなのか。

自ずから明らかと書いて自明だ。

 

戦う限り、悪が勝つ。

 

それが道理というものだ。

 

だから、懐かしき前世の王国は、シルバーミレニアムは滅びたのだと思う。

 

愛と平和を善しとする人々は、戦えば戦うほどにうんざりしてくる。

支配と闘争を好む人々は、戦えば戦うほど、血湧き肉躍ってイキイキして力を増していくんだ。


まぁ少年誌の主人公とかだと、もっと強え奴と戦いてぇ、オラわくわくすっぞっていうバトルマニアタイプもいる。彼らは戦うほど快であり、また強くなる。シンプルだ。

 

でも愛を第一と謳う戦士はそうじゃないわけだ。

最後に愛が勝つと信じ、仕方なく戦い続けることに適応するのなら、

敵の企みを暴き、悪を倒し続けることに慣れて、戦闘スキルを向上させていくなら、

それはやはり修羅道だ。

平和を求めながら、戦う以外の生き方がわからなくなっていく。

そのメンタルは葛藤し、苦しみは闇堕ちを呼び寄せ、悪の組織の誘惑が近づいてくるだろう。

 

ダークキングダムの幹部たち、そしてクインベリルは、もとシルバーミレニアムの住民、地球人だ。

 

「大いなる支配者」という実体があるか怪しい概念のような存在以外は、

ダークキングダムは闇堕ちし、裏切った同胞によって構成された組織だ。

 

・・・さて、

実はセーラームーンの話っていうか、

これからの世界、アフターコロナとかニューワールドオーダーとか、そんな話をしているつもりだ。

 

ダークキングダムのような何者かはいるだろう。

三百人委員会かもしれないし、イルミナティかもしれないし、ディープステートかもしれない、ロスチャイルドやロックフェラーやモンサントユダヤ資本かもしれない。

 

クインベリルや幹部の妖魔達のような何者かもいるだろう。

ヤクザかもしれないし、ビルゲイツかもしれないし、大統領や法王かもしれない、首相や政治家かもしれない。


各回ザコ妖魔のような何者かは言うまでもない。

自粛警察とか、買占め転売ヤーとか、ブラック会社の上司とか、毒な親とか、いじめっ子とか、いつでも隣にいる。

 

それらすべての元締めに「大いなる支配者」のような何者かもあるだろう。

ネガティブ系宇宙人かもしれないし、レプタリアンかもしれないし、

もっと実体のないもの、なにか人類や宇宙の進化の方向とは逆の指向性とか、

恐怖そのもの、コントロールを外れた自分たちの心の一部かもしれない。

 

ああ、なんということでしょう。

そんなものを相手に、変身アイテムも必殺技のひとつもない一個人にできることがあるの?

 

ある。そこが実感として掴めないうちは、そういう情報を知るにはまだ早いんだな。

悪を暴くことを常態にすると、ネガティブな感情に飲み込まれて、闇堕ちして、王国が滅びに近づく。

昇級試験に、アセンションに失敗する。

 

生まれ変わって、やり直して、今もう一度のチャンスを生きていると知ったなら、

もう戦ってはいけない。

 

善と悪の二項対立、それ自体を越えていかなくては。

 

自分の外に悪があると思うから、他者に非があると思うから、その乖離を利用されてしまう。

 

その悪、その非は、自分の内にあるものだ。

 

外にある悪や非は、自分のなかにあるものの影、投影だ。

 

「大いなる支配者」の姿は、実はとても小さい。

自分達が野放しにしている心の一部を纏って、巨大に見せているだけだ。

 

ダークキングダムが巨大な悪の組織にみえて、実はそのほとんどがマインドコントロールされた地球由来の人間種だったのと同じだ。

 

各々が、操られたり流されたりすることなく、自分の心を完全性に近づけていれば、

「支配者」は自分を大きく見せることができない。手駒をもつこともできない。

等身大の悪事しかできない。それくらいは多様性の範疇に許容できるものだ。

 

プロモーションに惑わされて浮かれ、エナジーを吸い上げられる愚かな人間どもであることを、やめる。催眠誘導から目醒める。


恐れを、葛藤を手放す。

己の至福を追求する。

自分の好きなこと得意なことで各々の道を究めていく。

それだけでいい。それが本質的解決だ。

 

まず、自分で自分を救う。

それから他者と繋がっていくなら、もっと素晴らしいんだ。

 

 

・・・・・・、

 

まあ、ハウルの動く城で書いたのとほぼ一緒の解釈をセーラムーンでやっただけではあるけど、このご時勢だからな。

もう一回同じこと書いても、違って聞こえるかと思って。

 

ソフィは「戦ってはだめ」って言って、ハウルの深層意識へ降りていく。

欲の権化、荒れ地の魔女を心から抱きしめる。それで魔女は執着を手放してくれる。

 

サリマンは支配が及ばなければ「しょうがないわね」と言って、戦争をやめるんだ。

 

そういうことなんだよ。

いつでも、今も、真に知るべきことは、心と、愛と、ほんとうのさいわいがなにかってこと、それだけだ。

 

 

「月の光は、愛のメッセージ」

セーラームーンは、そういう次回予告だったっけな。

愛の戦士も必要な段階には違いない。

でも愛の使者とか、愛の体現者というのなら、そこに葛藤はないのでもっとよろしいと思うわけだ。

 

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セーラームーン無料視聴はミュトスさんからのおススメでした。いつもありがと!

http://itest.5ch.net/test/read.cgi/comicnews/1566495487/l50

 

 お題「#おうち時間

 今週のお題「会いたい人」 

  

新しい世界を想う。

天気の子 グランドエスケープ ORIGINAL COVER INST.Ver

 

アフターコロナ、という言葉を聞くようになった。

この騒動の前と後で、世界は変わってしまうという認識がそういう言葉になったわけだ。

言葉にする、概念にする、というのは人の認知に新しいカテゴリをつくるような、人の知のもつ本質的な力だ。

捨象されるものもあるが、事象を脳内で扱いやすくなる。

 

アフターコロナワールドは、どんな世界だろうか。

終末戦争まで突っ走ったあげくの北斗の拳のような荒野?

マスクをしなければ5分で肺が腐る、腐海のような死の世界?

AIがすべてを管理してくれるPSYCHO-PASSのようなディストピア

それともポニョのような自然と魔法の力に満ちた新世界だろうか?

 

何が、新しい世界の在り方を決めるのだろうか。

 

それで、去年の7月に見た「天気の子」を思い出した。

 

災禍の形は伝染病ではなくて降り続く豪雨だったけど、

あれは災禍の前後で世界が変わってしまうことを、

少年少女の意志ある選択の結果として、肯定的な視点で描いた物語だった、と思う。

 

当たり前だと思っていた日常が、実はずっと誰かの、何かの犠牲の上に成り立っていた。

 

東京が住みよい気象だったのは、晴れ女という人柱の巫女を800年ものあいだ捧げ続けてきたからで、

 

「巫女、人柱が一人犠牲になれば晴れるなら、もとの天気になるというなら歓迎だ。てか、皆そうだろ。」

とかそんな言葉で、誰もがそういう世界の在り方を、弱いものにツケを払わせる世界を、多少後ろ暗くも容認していたか、あるいはまったく知りもしなかった。

 

保護者のいない15歳の少女にすべてを押し付けて、背負わせて、切り離して、

それで今までどおりを続けようとして、でもそのシステムにはもう限界が来ていた。

 

人柱の力で上空に留めおいていただけだった雨は、800年の間に積もりに積もった巨大な積乱雲になっていた。

 

歪みは、蓄積され続けていたんだ。いつかはそれに向き合わなくてはならなかった。

 

小説版の内容なんだけど、

少年少女の陽菜と帆高が帰ってきて、白竜が落ちて、豪雨になったところで、

「てか、皆そうだろ」とか言っちゃうやさぐれた大人、須賀のモノローグがある。

 

その時、誰もがおそらくはその雨が普通ではないと感じていた。

 

いつかこういう日が来ることを、本当は誰もが知っていた。

 

俺達はずっと感じていた、

俺達は別になにもしていない、なにも決めていない、なにも選んでいない。

それでもこのまま逃げ切れるわけがない。

 

世界はいつか決定的に変わってしまうだろうと誰もが予感していて、

誰もがずっと知らないふりをしていたのだ。

 

 

新海誠の先見性エグい。

「その雨」を「この病」か「このウイルス」にちょっと置き換えて、もう一回読んでみる。

 

コロナ渦中にある我々の心情に近いものがある。

 

「自分は何も悪いことしてない」「理不尽な災いに原因をこじつけるな」と思った人もいるだろうが、

 

ちょっと今着ている服をめくってのタグを見てほしい、メイドインどこって書いてあるだろうか。チャイナ?マレーシア?台湾?

フツーに生きてるだけで、何もしなくても、決めてなくても、社会が採用してるシステムに加担している。せざるを得ない。

 

もしメイドインジャパンを選んで着てるような意識高い人がいたら、環境問題やグローバリズムの弊害に関心がある人だ。

そういう人は須賀の言う意味が解るだろう。

 

 

 

新型コロナウイルスは、密集、密閉、密着の条件で感染拡大する。

それは一極集中、中央集権、都市化、グローバリズム、あるいは建築の気密化、

高度に文明化したこの社会であればこそクリティカルヒットな性質だったわけだが、

 

こうなってみて、いつも、色んな人が警鐘を鳴らしていたよな、と思う。

なにごとも経済優先、儲かること第一で、

油田でも鉱山でもあちこち掘り返して、森を切り拓いて、

乱立したビル街に人を詰め込んで、

物価や人件費が安い国から大量にモノを運んできて、

どこに行くにも飛行機や新幹線でほんの数時間行ける、

サイコーに便利でイージーな世の中の恩恵を受けていた、

でも、それには代償もあった、

新型コロナウイルスは、蓄積されていたリスクを顕在化させただけなんじゃないのかっていう。

 

多分、このパンデミックがなくても、いつかどこかで何かが起きた。

多分、人類の生存環境に決定的なダメージが入ってしまって、手遅れになってから気がつくよりは、いくらかマシなタイミングで変化のチャンスが来た。

・・・のかもしれない。

 

近代化、産業革命、資本主義の台頭、富める者がより富を集めるシステムの運用から、ざっくり200年分溜めてきたツケということになるだろうか?

 

天気の子では、800年分溜め込んでいた雨がざぶざぶ降りまくるまま、三年が経つ。

 

東京は水没する。

 

だとすれば、きっとたくさんの人が亡くなって、職を失って、家を失って、大事なものを失っただろう。 

日の光の差さない街で、心を病んだ人もいただろう。

 

でも、新海誠はその世界を絶望の終末としては描かない。

水没した高層建築の間を水上バスが走って、人が逞しく行き交ってる活気を描く。

 

誰にも保護されない十代の主人公たちが、誰かの犠牲になることをやめて、

搾取されることを、踏みつけにされることを拒否して選び取った世界は、

愛しい誰かが、どこかで自分を待っていてくれる世界だ。

 

 

アフターコロナワールド、今まで通りでない世界がやってくるとして、

そこがどんな世界に見えるかは、自分の心次第だと思う。

 

瀧のおばあちゃんみたいに、因果応報を察して淡々と「もとに戻っただけ」っていう世界を見てもいい。それは所詮人為も自然の一部という諦念かもしれない。

須賀みたいに、オフィスを立ち上げて社会的に成功して「世界なんてもともと狂ってる」というやや捻くれた達観のなかで、それでもしぶとく生き延びていくのもいい。

 

でもきっと、もうお終いだと絶望した人も少なくなかっただろう。

 

怒りの矛先も悲しみのもとも、いつでもいくらでも、数えきれないほどある。

どこかの国がウイルスをばらまいたんだとか、国の対策が遅れたから蔓延したとか、

誰にも看取られず亡くなる人がいること、死者とのお別れもままならないこと。

 

それは事実としてある、どうしようもないことだ。

ただ、それに心を飲まれないためには、どうしたらいいかってことだ。

 

 

凪や夏美には、水浸しの東京がどんな世界に見えているだろうか。

 

凪や夏美は、目まぐるしい状況のなかでも、自分の意志でなにかを選択したキャラクターだ。

そうすべきだという空気に従うのをやめて、自分の心が正しいと思うことをした。

だから、その結果がどんなものでも受け入れることができると思う。

 

自分で決めたことの先にある世界なら、どんな困難があったとしても、

誰のせいでもない、自分のものとして受け容れることができる。

 

凪や夏美は、新しい世界で颯爽と生きているはずだ。

 

自分の心が示す正しさを感じられる人、そのとおりにできる人に、自分はなりたい。

 

 

しかしまあ、誰しも日常の自分というものは、だいたいノイズだらけだ。

誰かに言われたムカつく一言が頭のなかをぐるぐるしてたり、

過去の恥ずかしい失敗をリピートして悶えたり、

今晩の献立や買い物の予定や、将来の不安とか、感染への恐怖とか、

色んなことが絶えず再生されて脳の容量を食っている。

デスクトップに使いかけのアプリやタブがいくつも開いているようなものだ。

 

自分という存在の最初の願いを知るためには、

新しいまっさらなインスピレーションを受け取るためには、

それら全部を一度閉じなくてはならない。

 

自分の思考を制御するのは、パソコンの使い方に慣れるのと一緒だ。

挙動がおかしくなったら、キャッシュを消して再起動をかける。

誰かに教わってもいいし、自分なりの試行錯誤でもいい。

ステイホーム期間こそ、そういう方法を習得していく好機だと思う。

 

 

・・・いや、ほんとさ、自粛自粛って言われ続けて、

みんな自粛じゃなくて委縮になってやしないかと思う。

 

テレビで マツコ・デラックスが「不要不急のって言われるたびドキっとする」って言ってて。

さすが言語化のセンスがあるよなと思ったけど。

観客なしセットなし、共演者とも距離をとって、ヘアメイクもなし白髪も染めてないらしく、すごく引いた構図で撮って、

もう苦肉の策のカタマリみたいな絵面で言われるとなかなかだった。

 

不要不急は控えろ、と言われたら、

自分のやることすべて要なのか急なのかって疑わないといけない。

それで自分のやってたことが要でも急でもない、ということになるのはキツイ。

仕事が生きがいの人ほどそうだろう。

自分なんか社会に必要ないんだと感じてしまう。落ち込む。

 

命を守るというスローガンは確かに是だが、

 

しかし世の中、安定よりも夢を追っかけちゃうタイプの人もいて、

彼らにしてみたら 命<生きがい だと思うよ。

命を盾に、生きてる実感を奪ったら、生ける屍になっちゃう。

大脳の発達した人間は、ただ命があるだけで満足できるようなイキモノではない。

 

医療従事者や小売店員や物流業者、今最前線で忙しいお仕事の人がフォーカスされるのは当然だし、本当に頭が下がるけど、

 

こんなところでブログ読んでるのは自宅待機で暇を持て余してる人だろうからな。

 

そういうステイホームしてる大多数の人たちだって、怯えて落ち込ませたままではいけないと思う。

 

自粛しろとか、控えろとか、外出るなとか、働くなとか、感染するぞ死ぬぞとか、

そういう抑圧や否定のメッセージは人を滅入らせる。

 

考えろとか、生き残れとか、追求しろとか、観察しろとか、新しくしろとか、

そういう積極的で発展的なメッセージに接していってほしい。

 

 

 

 

だから早く天気の子のDVDが欲しい、5月27日とか待てない。

アナ雪2も5月13日とか待てない、今すぐ見たい。

 

そこはGWに間に合うように発売しておくれよ・・・! _(´ཀ`」 ∠)_

 

仕方ないからジブリと怪獣の子供を見て待つ。

 

お題「#おうち時間」はアニメ、読書、ブログ、瞑想。

 アナ雪2は配信は開始してた!素晴らしい。お子様に見てほしい。

 

 

 

これから天気の子の考察をしたいっていう記事を見て、天気の子のことを思い出した。

LAMUさんタイムリーで感謝。

https://lamu.hateblo.jp/

 

 

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"Weathering With You"

 

 

開疎化がもたらす未来

 https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2020/04/19/131331?_ga=2.37533920.1798048692.1587739206-800197266.1580546508

 

密集、密閉じゃない、アフターコロナがどんなコンセプトの世界になるかっていうひとつのおもしろい未来図。

こういうことを考えていれば、わくわくできていいと思う。

ステキな未来を創造するには、まずそれをイメージすることだ。

できるだけ鮮明に、ありありとだ。

 

「ぼくがかんがえたさいきょうのあふたーころな」とか、なろう系で流行ってくれ。

異世界ものの設定を考えるノリを活かすときだ。

宮崎駿の世界観を解釈する4 飛行体の変遷。

木のジグソー 天空の城ラピュタ 208ピース タイガーモス 208-W207

宮崎駿の描く、空をとぶものについても順にテーマが発展していくような過程を見てとれると思う。

 

以前の記事に追記してて思いついたんだけど。

夜空にいるサソリは、星の配列をサソリに見立てた蠍座で、その起源はギリシャ神話だ。

でも、日本人なら銀河鉄道の夜にもサソリの星の逸話が出てくるのを覚えている人も多いだろう。

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宮沢賢治の著書は青空文庫にあるので、引用する。

 

「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれでされると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんう云ったのよ。

むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。

するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。

さそりは一生けん命げて遁げたけどとうとういたちにおさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、

もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。

そのときさそりは斯う云っておいのりしたというの、


 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、

そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。

それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。

どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにれてやらなかったろう。

そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。

こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。

って云ったというの。

そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。」

 

引用以上。

なぜか涙ぐむような沁みる話だ。

 

地を這う虫が、空で赤く燃える星になる話、生まれ変わりの話。

 

地べたを這いまわってその日食べて生きることしか思わない、言ってみれば下等なものが、

みんなのさいわいのために、という崇高な願い、祈り、こころざしに目覚めたことで、空の高みで赤く燃える星になる。

 

心の在り方が変われば、そのとおりに姿かたちが変わるというレトリックなわけだが。

 

地面から空に、下から上に。虫が、星に。

 

そういえば、宮崎駿の作品でも前半は虫的なイメージをよく見て、

後半になるにつれ星的なものが登場するような気もする。

 

初期のほうの作品で、

腐海の蟲、ウシアブやヘビケラ、ダイオウヤンマはもろ虫、羽のついた虫だ。

ラピュタのタイガーモス号も虫、ヒトリガ(灯盗蛾)だ。フラップターも羽虫。

コミニカ キーチェーンコレクション 「風の谷のナウシカ」ウシアブタケヤ式自在置物 蛇螻蛄 鉄錆地調 約405mm PVC&ABS製 塗装済み可動フィギュア KT-011

さんけい みにちゅあーとキット スタジオジブリシリーズ 天空の城ラピュタ タイガーモス 1/300スケール ペーパークラフト MK07-171/20 フラップター (天空の城ラピュタ)

 

 

 

想造ガレリア メーヴェ&ナウシカ[Full Action Ver.]f:id:philia0:20200422210757p:plain

 

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で、ナウシカメーヴェ(カモメ)やパズーの飛行機は鳥で、

 

空を飛ぶもののイメージがの対比になっている。

 

魔女の宅急便では、箒で飛ぶキキと、自転車がベースのトンボの人力飛行機

 

紅の豚では、エンジンがついて長距離飛行ができる飛行艇

紅の豚で、自然や人力での飛行から、文明や科学の力での飛行になる。

 

もののけ姫で転換点になって、

 

次にでてくる飛行体は、ハクや名のある川の主、竜だ。神に近いもの。

羽も翼もなく、魔法具でも科学でもなく、もうそういう理屈を超えたちから、神通力とか、イマジネーションで飛翔する。

トトロも飛ぶけど、コマに乗ってるのはホウキに乗ってるのと一緒で、なんとなく飛べそうというイメージの補助、媒介やマジックアイテムで飛んでるとみることもできる。

 

ハウルの動く城では、ホウキなしで人が空を歩く。

ハウルは鳥に変身し、フライングカヤックは虫の羽だ。鳥と虫の対比が再び登場する。

そして、流れ星、星の子が出てくる。

 

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8作品、ざっと20年かけて、地を這う虫が、空で燃える星になっていった。

 

そんな気もするね。

 

ポニョでは、とても印象的な夜空と星が描かれる。

ポニョには飛行体はあんま出てこないけど、グランマンマーレは光の奔流とともに上昇していく。

グランマンマーレは太古の海の女神だ。

観音様の御神渡りだと言って、船員達は彼女に手を合わせたり柏手を打ったりする。

圧倒的に神聖な存在に相対したと感じたから、自分たちの知る方法で畏敬を示した。

かなり神格が高い神様っぽい。

土地神や竜神や、契約や交渉に応じる悪魔とは一線を画する神、

母なる海の神格化、自然の理法そのもの、創世神話級の神様だ。

 

飛行体の変遷を見ていくと、

 

地を這う虫、地表近くを飛ぶ羽虫、それよりは高く空を飛ぶ鳥、

人類の飛行機械であれば成層圏より高くも飛べる。

だんだん飛行能力が発達し、高度を上げていく。

 

が、宮崎駿の世界観は、そこで宇宙に飛び出すことはない。

銀色のメカがぴかぴかするSF展開にならない。

ナウシカで「嘘か本当かしらねぇが、星まで行ってた」船が出てくるが、

朽ち果てた残骸、遺跡と化している。

 

科学や、物質文明でいける高みというものに興味が湧かない人らしい。

 

家内制手工業でつくるレトロな飛行艇の次が宇宙船になることはなく、

神殺しを経て、竜や星の子や女神を描く。

 

「どうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。

というような、気高い、崇高な、そういう心の在り方がそのままに、その者のいる高いところになる。そういうレトリック。

宮崎駿の空への想い、飛翔への憧れは、辿り着きたい遥かな高みというのは、

物質的なものでなく精神的なものだ。

 

地球からハイテクな金属のカタマリを射出すれば、いつか行ける気がするどこか。

宇宙戦艦やスペースコロニー、地球と同じノリで開拓していけるような宇宙ではなくて、

 

願い、祈り、こころざし、そういうものが導いてくれる、

心でしか行けない場所ってことなんだろう。

 

おもしろいことに、漫画版ナウシカで描写される腐海の尽きるところの清浄の地も、心でしか行けない場所、と表現される。

地の底の、また底、最奥、深奥。

 

あるいは、天空よりも神々よりも自然の理法よりも高い、天辺、最上、最高。

 

空よりも高く、海よりも深い、心でしか行けない場所。

そのどちらにもおそらくは、同じものがある。自分はそう思う。

サソリも井戸に落ち、空で燃える星になる。

水に満ちた深い穴の底が、星々の連なる遥かな高い空とつながっている。

 

 

上からでも下からでも、最下層を抜けても、最上層を抜けても、

有限の世界の殻を破ったなら、そこにあるものは無限だ。混沌とか根源とか0とか、そういうものだ。

 

すべてであって、すべてでない。

全知全能ゆえにすべては成就し尽くし、零知零能となって安らいでいるしかない。

素粒子の粒的ふるまいと波的ふるまいが、完全に釣り合って鎮まり、なにも観測できない。

どこまでもあまねく、静かな霧の粒が揺蕩っている。

 

ナウシカの落ちた腐海の底は、砂と水だけの静かで広いところだ。

砂という粒をあらわすもの、水という波をあらわすもの。

それだけがどこまでもひろがる、そういう感じのするところなんだっていう感覚。

 

瞑想やマインドフルネスで、その感じまで行けたら成功だと思う。

 

その静けさにいつも至れるような自分なりのメソッドをつくりあげていく。

 

それで求めてやまなかったもの、渇望していたものは、遠いどこかにあるものだと、

海の彼方には、もう探しに行かなくて良くなる。

輝くものはいつもここに、わたしのなかに見つけられたから。

っていう歌の意味がわかる。

 

今、ここ、を生きられる。

 

 

 

・・・さて、

宮崎駿はそこまで解釈できるような優れた象徴を作品に込められるのに、

風立ちぬではどうしてああなっちゃうんだぜ。

妹の加代には夜空に流れ星が見えて、次郎には星が見えないんだよな。替わりに夢が見える。

そして何度となく飛行機が落ちる場面が繰り返される。

 

精神的な高みを、創世神話レベルを突破するくらい描いたから、

あらためて物質的な高みを目指そうとして、

ポルコの1920年代の飛行艇を1940年代のゼロ戦や、それ以降の飛行機械に進めようとして・・・、

 飛行機の墓場になっちゃったってことだろうか。

 

風立ちぬについては、次作を見て手のひらクルクルしたいと願ってる。

・・・が、今夏このご時勢で公開されるのか?

観ないうちには死ねない。健康には一層気を付けよう。

駿おじいさんも煙草やめて長生きしてほしいものだ。

 

このブログも残るメイン記事は、紅の豚もののけ姫風の谷のナウシカ

君たちはどう生きるか」公開までにはなんとかなるだろう。多分。

 

 

 

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追記、

創世神話級の竜神もいないことはない。

ドガルズオルムとか、伏羲と女媧を竜神と見做すこともある。

 

でもまぁ、名のある川の主やハクは、川の神格化だからな。